朝鮮国書
ちょうせんこくしょ
概要
弘治13年(1500)正月日付、朝鮮国王李㦕(燕山君)が琉球国王尚真に宛てた書契で、朝鮮国に漂着した琉球人漂流民を「対馬州人」に依頼し琉球国へ送還する際に発給されたものである。
料紙は大型で厚い特徴を有する朝鮮製の楮紙打紙を用いる。封式は、朝鮮国書通有の「弦心封」と称されるもので、奥から袖に九折に折りたたみ、第一折目となる文書の袖部分を第三折目の裏面中央にて糊付けをして封とする。封部分に、宛名「奉書/琉球国王殿下」、差出「朝鮮国王李㦕謹封」と書し、諱の文字上に朱文方印「為政以徳」を捺す。本文は擡頭、平出を用いた漢文体で文字は小さくあらわされる。このように、本国書の様式、品質、形状は、わが国に現存する万暦18年(1590)から辛未年(文化8年、1811)にかけての朝鮮国書(豊臣秀吉、徳川将軍宛)9通(宮内庁書陵部、東京国立博物館、外務省外交史料館所蔵)のそれらとほぼ共通する。
『燕山君日記』および『中宗実録』によれば、1497年8月に済州島に漂着した10名の琉球人は宮古諸島の多良間島の人で、漢城の東平館(倭館)に連行されたのち、朝鮮王朝から依頼をうけた対馬島の貞勝という人物により、生存していた4名が琉球国まで送還されたことが知られ、本国書はこの送還に際して発給されたものと認められる。1500年11月、日本船の琉球到来を契機に40年ぶりの正規の琉球国王使である梁広・梁椿が朝鮮に派遣されたことなど複数の史実から、本国書は漂流民とともに琉球国に届けられたものと考えられる。
15世紀後半の朝鮮は通交相手を制限するために文引制度を導入していたが、世祖や成宗は積極的な漂流民送還政策をとったため、貿易機会の増加をもくろむ博多・対馬の商人らによる漂流民送還事例が多くみられるようになった。琉球国は第一尚氏から第二尚氏への王統交代期でもあり、1467年(琉球国中山王尚徳名義)から1494年(琉球国中山府主名義)にいたる9回の琉球国王使は、国王使の割符を所持していた博多商人らによる偽使であった。漂流民送還を対馬島の人物に依頼したこと、正規の琉球国王使の派遣が40年ぶりであったことの背景はこのようなものであった。
本件は現存する朝鮮国書のなかで最古の文書として古文書学上に注目され、中世後期の東アジア対外関係史上における数少ない外交文書として貴重である。