琉球国中山王書翰並貢物目録
附 書翰箱
りゅうきゅうこくちゅうざんおうしょかんならびにこうもつもくろく つけたり しょかんばこ
概要
本件は、江戸幕府が琉球国から接受した21通の琉球国中山王の書翰と2通の謝恩使・慶賀使の貢物目録である。
書翰は第6回(天和2年<1682>)、第7回(宝永7年<1710>)、第8回(正徳4年<1714>)使節派遣および5代将軍徳川綱吉と7代将軍家継の薨去(宝永6年、享保元年<1716>)の際のもので、年号・干支記載のもの9通と享保元年および2年に比定される月日のみ記載のもの12通に大別され、前者は竹紙、後者は間似合紙を料紙とする。(享保元年)5月4日付尚敬書翰6通には、文字位置の目印である圧痕や針穴が、差出、上所、月日、宛所の部分で確認できる。間似合紙書翰12通には全て捻封の封紙が残り、そのうち(享保2年)6月21日付尚敬書翰6通には本紙と同質同寸の礼紙が附属する。幕府老中5名連名宛と土屋政直宛の各3通ずつが、附指定とした書翰箱に収められたと思われる。
宛所の敬称は竹紙書翰は「殿」、間似合紙書翰は「様」、上所は「進上」(天和3年)と未記載(宝永6年)が各1通であるが、宝永7年以降のものは全て「謹上」である。書止文言は竹紙書翰は「誠惶不宣」、「誠惶謹言」、「誠惶不備」、間似合紙書翰では全て「誠惶謹言」に統一される。
書体は竹紙書翰は、抬頭や平出を用いた漢文体、間似合紙書翰は、御家流の候文となっている。書翰の差出は中山王尚に続き諱を記し、花押をすえる。宛所は幕府老中連名もしくは土屋政直単独のいづれかである。将軍等への披露状の様式をとる。
貢物目録は正徳4年の第8回琉球使節の正使の献上品を記すものである。柿渋をひき銀箔を散らした竹紙を料紙とし、装飾性と保存性を高めたものとしている。
附属する2合の書翰箱は、被せ蓋箱造の曲げ物で、内外側に装飾等はなく簡素な形態である。
以上のように本書翰は料紙、書体、文体、年月日、宛所の敬称表現等において正徳4年までの9通および貢物目録2通と享保期に比定される12通との間で、古文書学上の様式に顕著な差異が認められる。この差異が生じた背景には次の経緯がある。
正徳4年12月、幕府は中山王書翰で使用されたきた「貴国」、「大君」、「台聴」等の文言について、敬語表現として不適当とする意向を薩摩藩を通じ琉球国へ通達した。幕府・琉球国・薩摩藩間にての折衝の結果、同5年正月25日、薩摩藩主島津吉貴は、「此以後者漢語を用不申、前々より琉球江一通致来候小竪文之躰ニ、和之文章ニ相調」旨を幕府へ回答した。以後、書翰の文書・品質が変更されることとなった。
伝来については、幕府の文書管理を職掌とした書物方の『書物方日記』に「中山王書翰」、「琉球書翰」等の出納記録が残されており、紅葉山文庫旧蔵と知られる。文庫内で朝鮮国書とともに重要文書として厳重に保管されていたが、明治維新後、文庫の蔵書を継承した書籍館、浅草文庫を経て現在の所有に帰したと推測される。
これら書翰並貢物目録は日琉外交の展開を象徴的に伝える資料群であり、正徳期に生じた中山王書翰の文言をめぐる幕府、琉球国、薩摩藩の書札上の問題を具体的に示しており、政治・外交史上に重要な意義を有する。