蒋洲咨文〈日本国対馬島宛/〉
しょうしゅうしぶん
概要
本件は嘉靖35年(弘治2年、1556年)11月3日に蒋洲が日本国対馬島に宛て、倭寇禁圧を求めた〓(木當)案(公文書)である。咨文とは明・清両王朝にわたって対等関係にある衙門(役所)間にて使用され、東アジア諸国間の対等の役所(または相当官)間においても頻繁に使用された文書様式であった。
料紙は竹紙を用い、とくに左端部の欠損が甚だしいが、近年東京大学史料編纂所で解体修理が実施され現形状の掛幅装に装幀された。本文の文字は楷書体を用い、明国皇帝にかかる字句は2字、明国にかかる字句は1字抬頭、日本国および大友氏に係わる字句は平出とするなど敬意が払われる。現在残る折痕を当初のものと考えれば、縦に5折した後に横に1折した状態であったと推定される。
書留は咨文の様式を示す「須至咨者」とし、その後2行にわたり「右咨」、「日本国対馬島」と宛所を記す。さらに改行して年紀を記載するが、「月」と「日」の間に大きく余白を設け、別筆で「初三」と記す。年紀に重なるように蒋洲が使用した官印と考えられる朱文単槨長方印(印文「奉副使官/之蒋関防」)が捺印される。奥に大書された文字は、欠損部が大きく判然としないが、琉球国宛の咨文写(『歴代宝案』収載)等と比較して、「咨」と書かれていたものと推測される。その下に蒋洲の押署がある。
本文の内容は概略以下のとおりである。浙江地方の各軍官の奏請により、蒋洲は浙江等処承宣布政使司(浙江省管轄の行政機関)と合議し、副使の官を帯びて倭寇禁圧の宣諭のために、嘉靖34年11月より日本の五島に到着し、平戸・博多を経て豊後に向かい大名大友氏と会議した。大友義鎮(宗麟)は倭寇禁圧を承諾し、僧徳陽を正使に表文と貢物を持参させ明国入貢を決定した。かかる経緯を踏まえて、対馬島主の宗氏に対し大友氏と同様の倭寇禁圧を宣諭する、というものである。但し、咨文を受け取った対馬宗氏が倭寇禁圧に積極的に動いた形跡は諸記録から窺えない。
本件は後期倭寇の最盛期における外交交渉の中で発給された伝来稀な外交文書原本であり、対外関係史上、古文書学研究上に貴重である。