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慶長六年九月三日付 前田長種判物(二上渡守船頭中宛)

けいちょうろくねんくがつみっかづけ まえだながたねはんもつ ふたがみわたしもりせんどうちゅうあて

概要

慶長六年九月三日付 前田長種判物(二上渡守船頭中宛)

けいちょうろくねんくがつみっかづけ まえだながたねはんもつ ふたがみわたしもりせんどうちゅうあて

文書・書籍 / 安土・桃山 / 富山県

前田長種  (1550~1631)

まえだながたね

富山県高岡市

慶長6年9月3日/1601年

折紙(巻子装)

縦28.9㎝×横44.9㎝

1

富山県高岡市古城1-5

資料番号 1-01-139-2

高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

越中射水郡守山城下町付近の小矢部川にある二上渡し(現富山県高岡市守護町)は、水陸交通の要衝である。本史料はその船頭らに渡船を新造し、今年を限り通行人より銭の徴収を許可した前田長種(※)の判物である。
 天正13年(1585)、越中西三郡を領し守山城主となった前田利長(当時は利勝)は、閏8月25日付で二上渡守かた宛に安堵状を発給している(高岡市立博物館蔵)。
 しかし、利長は豊臣秀吉の武将として上方に詰めて、守山城、次いで富山城を空けることが多かったので、義兄の長種を城代とし、領内の統治を委任した。これはその一例であり、当時富山城代であった長種は、二上渡しの船頭を保護したものである。
 慶長2年(1597)、利長は富山城に移転すると守山城の役割も徐々に失われ、同4年には長種も移る。しかし、二上渡しの交通上の重要性は前田家も認識しており、慶長11年2月付山崎長鏡等年寄連署状をはじめとして、この船頭らを保護し続けていく。

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【釈文】

 二上渡シ船、今
 般新造仕立
 条、地下人・商
 人・牛馬通路、
 馬壱疋ニ八木(※)五
 合宛、人壱人ニ三
 合宛、当年中
 可取之者也、
 
 慶長六    対馬守
  九月三日   長種(花押)
 
   二上渡守
    船頭中

(※「八木」は米のこと)

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※前田 長種(まえだ ながたね)
  1550年生~1631年3月11日没
 安土桃山~江戸時代初めの武将。尾張国(愛知県)に生まれる。加賀藩老臣。通称対馬守。1584年、前田利家に出仕。1万石を受けて七尾城を守り、利家の長女幸を室とする。1586年、守山城に転じ、1593年同城でのち加賀前田家3代当主となる前田利常(利家四男/母は側室千代)養育の任にあたる。1599年富山城に移り、対馬守を称する。1606年小松城に移り、加増され2万石となり、人持組頭となる。剃髪して源峰と称し、小松で死去。法号は常徳院孤庵源峰居士。子孫は世襲年寄の加賀八家(対馬守家)となった。
(『石川県大百科事典』北國新聞社、1993年、p910。『富山大百科事典[電子版]』北日本新聞、2010年)

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