秋景山水図 しゅうけいさんすいず

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日本画 / 江戸 / 富山県 

堀川敬周、賛:殿岡神通 (堀川敬周(1789頃~1858)(1)、殿岡神通(1782/83~1865)(2))
ほりかわけいしゅう とのおかじんづう
富山県高岡市
安政4~5年(1857~58)
絹本著色・軸装
〔本紙〕縦106.1㎝×横42.7㎝ 〔全体〕193.9×54.8 〔軸長〕59.7
1幅
富山県高岡市
高岡市(高岡市立博物館保管)

 高岡初の町絵師といわれる堀川敬周の「秋景山水図」である。
 遠くの谷から蛇行して流れる川岸には、鮮やかな紅葉や芒、柿、萩などの秋の木や草を配しながら、高い技量を示すグラデーションにより遠近が表現されている。最も手前の川では老人が何かを探しており、それを子供が見ている。これは何かの故事を表現しているのかどうかは今後の調査を要する。
 敬周の落款は珍しく無く、右下には印章が二つ捺されている。上から白文方印「敬周公載」、朱文方印「長汀」である。
 左上の余白には殿岡神通(青木北海)による賛「(朱文方印「大体(體)」)積善之家/必有余慶(積善の家には必ず余慶あり)」(4)が書かれる。続いて款記「七十五翁神通従(白文方印「易翁」)」がある。神通は天明2年(1782)、または3年の生まれであるので、その75歳は安政4年(1857)、または5年となり、賛の書かれた年代がわかる。しかし、必ずしも賛は絵が出来たと同時に書かれるわけではないので、この年が絵の年代と即断はできない。ただ安政5年は敬周の没年であり、その最晩年の作であることはいえよう(最後の作品である可能性もある)。
 また、付属品の敬周地面売渡証文は、晩年に土地を何らかの理由(補筆では「貧にして」)で売却した記録である。作品は多いが手紙などは発見されておらず、人物として詳細の知れない敬周を知る上では極めて貴重な史料である(ちなみにこの証文は本作品の箱の中に入っていたものであるが、本作品との関係は不明)。
 状態は極めて良好である。

<注>
1.堀川 敬周(ほりかわ けいしゅう)
  生没:1789頃~1858(寛政元~安政5)
 江戸後期に商工活動が盛んになった高岡で現れた最初の専門町絵師。天保・弘化年間を中心に活躍し、初期高岡画壇の礎を築いた(神保1980)。姓は「源」、字(あざな)(もしくは氏)が「公載」といい、また「長汀」とも称した。 『高岡史料』下巻(1909年、高岡市)によると、高岡堀上町の紺屋・湊屋平助の二男として生まれ、片原中島町の画人・堀 蠖翁の養子となった。銅漆器の図案などを描いていたが、京都四条派の紀広成、東東洋に学ぶ。山水・花鳥・人物などあらゆる画題を修得した。文化末期頃に高岡へ帰り、多くの作品を残した。一方、漢詩人・大窪詩仏、金沢の俳人・梅室、瑞龍寺の閑雲禅師やら多くの文人墨客達と親交を持ち、洒脱な俳画や風俗画も描いた。また高田蕙圃など多数の弟子を育成した。
高岡市立博物館『企画展 高岡の絵師 ―堀川敬周とその弟子達―』2003年
神保成伍「高岡最初の専門絵師「堀川敬周」」(高岡市立美術館・博物館誌「高志の華」№35、1980/1/30)

2.殿岡 神通(とのおか じんづう) 
  生没:1782/83・1・30~1865・11・15(天明2/3~慶応元・6・11)
 江戸時代後期の国学者・漢学者。富山藩士・青木平馬の子。富山藩第九代前田利幹の近習役を務めるが、学を好み、早くに子に家督をゆずり、江戸に移住し子弟の教育に当る。清水浜臣に国学を学ぶ。和漢学、易経に通じ、和歌、書もよくした。また工芸にも才能を示した。享年83/84。当初は青木姓、のち殿岡(外岡)。名は従。通称は又市(又一) ・玻璃蔵。字は復・復一・大体。別号に北海・海雲・瓊華堂(生)・墨顛・易翁・真臣・松陰など。著作は「越中地誌」「周易外伝神通放言」など。
HP「講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」平成31年1月30日アクセス
HP「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース/いろは帖」平成31年1月30日アクセス

3.嘉永7年(1854)4月14日付堀川敬周地面売渡証文
 敬周の死の4年前の嘉永7年(1854)の「地面売渡証文」である。敬周は『高岡史料』では高岡片原中島町に住んだというが、この史料に町名は記載されておらず不明(裏書(異筆)には敬周は片原横町に住んだとするが、片原中島町の誤りか)。この地所を大工清蔵に金6両2歩(約675,000円/1両≒75,000円/HP「古文書ネット」)で売却した際の証文である。当時、地面は全て藩主のものなので、建前として「売却」とは明記せずに「請所」としている。片原横町は藩よりの借地である「地子町(じしまち)」に分類され、藩へ地代(史料には「御年貢米」)を支払わなければいけなかった。
 そして、裏面には「湊屋平助」の一筆がある。しかし、「湊屋平助」は堀上町の紺屋で敬周の実の父と同じ名前である。敬周最晩年の史料なので、おそらく2~3代後の人であっても襲名しているものと思われる。
 また、裏面には史料とは異なる筆(筆者不明)で、後世の加筆がある。それよると、「先生(敬周)ハ家貧ニシテ宅地所ヲ売却セラレタル証文ナリ」(敬周は家が貧しかったので、宅地所を売却した証文である)とある。
 多くの作品があり、また俳人としても活動し、多くの文人墨客とも親交をもっていたので、敬周は裕福な生活をしていた可能性もあったが、この史料でその可能性が薄れた。しかし、常に貧しかったのか、何かがあって貧しくなったのかなどまだまだ不明な点が多い、敬周について一つ重要な情報をもたらす貴重な史料といえよう。

4.「積善之家必有余慶」せき(しゃく)ぜんのいえには、かならずよけいあり
 「易経/坤/文言伝」の一節。「善行を積み重ねた家には、必ず思いがけないよい事が起こり幸福になる」という意。続きは「積不善(積悪)之家必有余殃(よおう)」。これは逆に「悪事を積み重ねてきた家には、その報いとして必ず子孫にまで及ぶ災いがやってくる」という意。
HP「小学館 日本国語大辞典精選版」平成31年1月29日アクセス

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