山縣昌景書状
やまがたまさかげしょじょう
概要
永禄12年(1569)当時徳川氏とともに今川氏に対峙していた武田氏の武将山縣昌景が今川氏真の籠もる掛川城を攻めた酒井忠次に宛てた書状で、徳川氏との協力関係について述べた内容である。当時の徳川・武田両氏の関係を知ることが出来る史料である。
今廿三日下條志摩守罷帰如申者、向懸川取出之地二ヶ所被築、重而四ヶ所可有御普請之旨候、至其儀者、懸川落居必然候、當陣之事、山半帰路以後、彌敵陣之往復被相留候之條、相軍敗北可為近日候、可御心安候、随而上野介・朝比奈駿河守・小原伊豆守人質替、寂前之首尾相違、貴殿へ不申理候由、御述懐尤無御余儀候、惣而駿州衆之擬、毎篇自由之躰、以此故不慮に三申可有御疑心之旨、誠於千某も迷惑に候、此度之様躰者、當國安倍山之地下人等企謀叛候間、過半退治、雖然、山中依切所、残黨等千今深山に楯籠候、彼等降参之訴詔、頼上野介・朝駿候、為其扱被罷越、永々滞留、既敵近陣候之處に、雖地下人等降参之媒介候、経数日駿府徘徊、信玄腹立候キ、三日以前告来候之者、人質替之扱之由候、信玄被申出候者、於千甲州大細事共に不得下知而不構私用候、况是者敵味方相通儀に候之處、不被窺内儀而如此之企無曲候、以外無興、上野介被停止出仕候、小伊豆・朝駿事者、唯今之間屡幕下人に候之間、無是非之旨候、是も信玄腹立被聞及候哉、無出仕之躰に候、元来於其人質替一切に不存候、御使本田百助方に以誓言申述候、尚就御疑者、公私共に貴方不打抜申之趣、大誓詞可進置候、所詮甲州に候御息女之事返可申之旨候之間、可御心易候、委曲之段、本田百助方被罷帰候砌、可申候、恐々謹言
山縣三郎兵衛尉
昌景(花押)
二月廿三日
酒井左衛門尉殿
御陣所
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