「家伝秘薬之巻」
かでんひやくのまき
概要
高岡坂下町の佐野屋佐介が家伝秘薬の由来や調合・薬種・功能などを記したものである。末尾に文化3年(1806)とあるが、文字の遣い方などから明治以降に写した可能性も考えられる。
前半部の由緒を要約すると、佐野屋の初代は越中砺波郡「般若の荘」(※1)の城馬三郎景兼(詳細不明)という武士である。4代後の龍庵は漢方医として徳の高い人物であった。永禄年間(1558~70年)の増山城(※2)主・神保守光(詳細不明。長職(※3)か)が高熱に倒れて衰弱していた際、龍庵は21日間の願掛けをすると夢中で白衣の老翁より霊法を授かり、急ぎ煉り合わせた秘薬を城主に献上すると忽ち快癒したという。神保一族も広くこの秘薬を愛用し、氏張(※4)も常に陣中に携えていた。その秘薬の薬効が世に広まると、前田利長の耳にも入り、遂に高岡へ招かれ、代々相伝してきたという。
その後には「秘法のこと」、「調合のこと」が漢文で記され、「薬種一剤の量」には熟地黄、桂枝など14種の薬種と分量が記される。功能は「虚逆」など5種が記されるが、詳細は不明である。末尾には朱字で、「口伝えするのは嫡子を除いて禁止する。秘中の秘であり肝に命じよ」(意訳)とある。
この佐野屋については不明であり、今後の調査を要する。
状態は本紙に折れが多数みられるが良好といえる。
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【注】
1.般若の荘(般若野荘/はんにゃのしょう)・・・ 砺波平野の東部に広がる中世の荘園。東大寺領井山・伊加流伎(いかるき)・石粟の3荘が衰退したあとに成立したと考えられる。荘名は,伊加流伎荘にあった般若寺に由来するか。荘域は広く,東部は南が砺波市庄川町三谷から北は高岡市中田まで,西部は南が砺波市太田から北は高岡市春日吉江におよぶ。現在はその中央を庄川が貫流するが,これは近世初頭に流路が東遷したためで,中世は地続きだった。〈般若野〉の初見は『源平盛衰記(げんペいじょうすいき)』1183年(寿永2)5月,木曽義仲の倶利伽羅合戦に先立つ般若野の戦い。般若野荘の初見は『吾妻鏡』。86年(文治2)6月,領主徳大寺実定が鎌倉武士によって年貢を抑留されていることを訴えたのに対し,源頼朝がそれを止めるよう命じた旨の記述がある。般若野荘の成立はこれより少し遡り,領主は当初から京都の公卿徳大寺家であった。在地守護勢力の介入を受けながらも,中世末まで約4世紀にわたって領主が変わらなかったのもこの荘の特徴である。しかし,下地中分は次第に進み,南北朝合一直後の1393年(明徳4)の文書に〈領家方〉がでてくる。応仁の乱も終わりに近い1474年(文明6),武家方の押領に業を煮やした徳大寺実淳(さねあつ)は,現地での支配を確認するため越中へ下向している。その後実淳の孫実通(さねみち)も2度にわたり出向いている。そして2度目の下向時の1545年(天文14)現地勢力によって殺害され,徳大寺家の般若野荘支配は事実上,途絶えた。〈佐伯安一〉
(『富山大百科事典(電子版)』北日本新聞社、2010)
2.増山城(ますやまじょう)・・・戦国越中の三大山城の一つ。守護代神保氏の歴代が拠点とした。庄川の東方,芹谷野(せりだんの)丘陵を越えた標高120m(比高70m)のところにあり,下を和田川が曲流して環壕の役割を果たす。和田川の手前の平地に城下町があった。南北朝時代の1362年(貞治1),桃井直常(ただつね)を攻めた守護斯波(しば)高経の将二宮円阿が合戦のあとひと冬を警固した和田城は,この城の北部分で〈亀山城〉ともいう。
戦国時代には上洛を目指す越後の長尾(上杉)勢がしばしば越中へ侵攻し,この城を攻めた。1506年(永正3)長尾能景(よしかげ)は神保慶宗(よしむね)を攻めて芹谷野で討ち死に,子為景は20年来攻して慶宗を討っている。孫景虎(上杉謙信)は60年(永禄3)以来数次にわたって来攻,76年(天正4)増山城をはじめ越中の諸城を落とし,能登七尾城をも手中にするが,その翌々年に没する。81年には織田信長の将佐々成政勢が増山城へ入り,85年には前田氏の領国となって中川清六が城を守ったが間もなく廃城となった。遺構がよく残っており,県指定史跡(1965.1.1)。城下町の土塁跡は砺波市指定史跡(1981.9.9)。〈佐伯安一〉 (同上)
3.神保長職(じんぼながもと)・・・生没年未詳。戦国時代の武将。神保慶宗(よしむね)の子。宗(惣)右衛門尉。慶宗討ち死にのあと,天文年間(1532~55)に長職は神保氏を再興し,盛んに領土拡張を企図した。富山城築城もこのころ,長職によるといわれる。そうした中で新川郡の椎名氏としばしば衝突し,確執を繰り返した。1543年(天文12)長職は椎名長常と争い,守護畠山稙家(たねいえ)や能登守護畠山義続の仲裁を経てひとまず和睦を結ぶ。しかし60年(永禄3)には抗争が再燃。このとき越後上杉謙信は既に国内を平定し,かつて父為景が補任を受けた新川郡守護代職を根拠に椎名氏を支援する。長職は富山城から増山城へと西へ追われ,一旦は没落したが謙信が所期の目的を達して越後へ戻ると,またも椎名氏を攻撃した。そのため62年には再度謙信が越中に攻め入り,滅亡の淵に立たされた長職は,能登守護畠山義綱に仲介役を頼み受け入れられる。これによって神保氏滅亡は回避されたものの,以後長職は増山城に逼塞した。
ところが68年,状況は一変する。上杉氏と結んできた椎名氏は一転して甲斐武田氏と結び,公然と上杉氏に反旗を翻した。長職は椎名氏との対抗上,上杉氏と結んだ。ただこの時,神保家中では意見が分かれ,寺嶋氏のように上杉氏に与しない者もいた。長職の子の中にも上杉氏と結ぶことをよしとしない者がいたようで,父子の間で〈鉾楯に及ぶ〉と伝えられている。以後神保氏の家臣団の主導権は,親上杉派の小島氏に握られていく。長職は71年(元亀2)ごろ出家して宗昌と称し,家督を子の長城に譲り,一説には翌72年ごろ没したと思われる。〈高森邦男〉 (同上)
4.神保氏張(じんぼうじはる)・・・?~1592(~文禄1)戦国時代の武将。守山城(現高岡市東海老坂)にあったといわれる。初め上杉謙信の幕下に入り,謙信の加賀方面進攻に従う。1577年(天正5)に謙信のつくった上杉家の将士名簿に名を連ねている。謙信没後は織田信長方に属し,越中に入国してきた佐々成政が最も重く用いたのが氏張であった。嫡男の氏則には成政の娘が嫁いでいる。氏張は守山城の麓の勝興寺に制札を発したり,土地を寄進したりしている。成政が魚津城(小津城)を攻め落とした時には軍勢を二手に分け,氏張を魚津城に当たらせ,成政は越後との連絡路を断ったのち合流してこれを攻め,末森城の合戦においても氏張は成政の別動隊の役割を果たしている。成政が1587年(天正15)肥後(現熊本県)に転封になるとこれに従って出国し,のち徳川家康に仕えた。〈奥田淳爾〉。 (同上)
能登守護畠山義隆の二男とも神保氏純(富山城主)、または神保氏重の子ともいう。幼名清十郎。諱は氏春とも。のち安芸守。元亀元年(1570)7月、魚津城を攻めたが謙信の救援により断念した。翌年謙信に富山城を攻められると守山城に逃れ、信長に通じた。元禄10年(1697)成立の槇島昭武著『北越軍談』(「北越太平記」)によると、天正8年(1580)信長の妹と婚姻し、越中守を名乗り、佐々成政の目付として富山城に入った。
(『富山県姓氏家系大辞典』角川書店、平成4年)
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【釈文】
家伝秘薬之巻
抑家伝ぬりやくの由来は代々之を伝へて曰く、
昔、越中利波般若の荘に度量豁イ豪勇無双の城馬
三郎景兼といへる武士あり、
之より四代の孫龍庵、霊草・霊木を野山ニ採りて、普く仁
を施すに近隣其徳に靡きて、一世の智者と仰かさるはな
かりき、
たま〱永禄年間に増山城主神保守光殿守、炎熱ニ殪
れ給ひ、虚弱日ニ加はるのみにして施すに其術を弁へす、
龍庵深く慮るところありて三七日の願を発し、只管天地の
神を念せしに、結願に及で宛も子ノ刻不覚に睡眠を催せは、
夢中忽然白衣の老翁影現なしたまひ、天地鳴動龍庵
の背間氷もて刺すかことし、然る間おのつから一切諸有虚
弱の民に普く此妙法を与ふへし、嗚呼之気現龍雲雷成効
不虚言也と高声に宣ふとみるや、□焉と老翁失せ給ひぬ、
龍庵輒ち霊法を授かりて火急に殿中に出仕なり、件の霊
法もて練合せたる秘薬を殿守に献するに効験忽ちにして
幾許もなく御快癒に赴き給ふ、
殿守御満悦のあまり遂に槍一鑓を下賜なし給ヘハ児孫之を
守宝として今に奉持するところなり、
斯くて御一門様広く此秘薬を御愛用にて殊ハ安芸守氏張
殿守には恒に之を陣中ニも携へ給へりと聞く、されハ薬効夙
に世に聞え、たま〱中納言様の御聴聞にも達し、遂に高岳
へ御招きを蒙るに到れり、
天下泰平御国主様御安全にて小家の繁昌はさても
尊仏の冥助に拠るところ通仏之一大事、信に小家の児孫
忽諸違失なく確り之を可相伝之者也、
一、秘法のこと
排葷酒声楽之□念 沐浴斎衣色神清浄
頂礼十方諸天善神 奉諸十二誓願応現
一、調合のこと
投神木大臼十三味 以己精魂則成一味
而煉合之以沸騰蜜 刻者自子至印相応
一、薬種一剤の量
熟地黄 六匁六分 川芎 一匁二分 茯苓 壱匁
山朱茰 壱匁二分 芍薬 壱匁 桂枝 五分
当帰 壱匁 唐白求 壱匁 唐黄耆 三匁八分
知母 八分 山薬 二匁八分 黄柏 五分
五八霜 一匁 飴蜜 六十五匁二分
一、功能
虚逆 疾逆 積逆 湿逆 血逆
(朱字)「口授下者除嫡子不可伝 秘中之秘要心肝要」
文化第三丙寅歳春佳日
坂下町
佐野屋佐介
謹識