バラ色の下着の少女(青いブレスレットの少女)
概要
絵画の大きな流れとは関わりがなく、その進展に寄与していないような画家は、たとえ才能のある画家でも、不幸にして語られる機会が少ない。また第一の表現手段が油彩画ではなく、版画やデッサンである芸術家も同様である。しかもそのような芸術家は、さらに不幸なことには、正当に評価されていない場合が少なからずある。
美術の通史を扱った本では、往々にしてそのような芸術家は、ぞんざいに扱われてしまう。とりわけ対象が二十世紀前半の美術の場合には、フォーヴィスムやキュビスムなどの革新的な運動を中心に編集され、そうした運動に関わっていない芸術家は無視されやすい。画集で個別に取り上げられる場合がなくはないが、それも決して多くはなく、ましてや格的な研究書はきわめて少ない。また展覧会においても、ほとんどその状況に変わりはない。今世紀の初頭から1930年までの間に約二千点の油彩画、水彩画、そしてデッサンを制作したエコール・ド・パリを代表する芸術家のひとり、ジュール・パスキンは、そうした芸術家の典型といえよう(1)。
パスキンは1885年ブルガリアでユダヤ人系の父の元に生まれ、1901年、十六歳のときから、父が営む穀物商を手伝うようになる。しかしほどなくデッサンの才能を認められ、それを契機に親元を離れ、ウイーン、ミュンヘンなどを転々としながら美術学校に通う。そして1904年、弱冠十九歳の若さで当時ミュンヘンで人気のあった風刺雑誌『ジンプリツィシムス』の挿絵画家として採用される。そこでのモチーフは庶民の日常や娼婦の生活がほとんどで、諷刺画によく見られる政治的あるいは社会的なものではなかった。翌1905年にはこの仕事を続けながら、パリに出る。すでによく名を知られていたパスキンは精力的に制作し発表を重ねる。しかし第一次大戦が勃発するとニューヨークに移住する。そしてフロリダ、ルイジアナなどを旅行し、土地の人々の生活をモチーフにしたスケッチを多数制作する。また、その一方でキュビスムの影響を感じさせる油彩画も多くはないが制作している。1920年10月にはパリに戻る。そして全裸もしくは半裸の一人ないし二人の女性を淡い中間色で描いた油彩画によってエコール・ド・パリの花形画家となり、経済的にも成功する。だが知人の妻と宿命的な恋に落ち、1930年6月2日モンマルトルのアトリエで自殺し、45年の生涯を閉じる。 このような生涯を送ったパスキンは、第一に、天賦の才に恵まれた素描家であった。身近な生活のひとコマ−特に女性、それも裸体−を、線で素早く捉えることを得意とし、そうした作品を制作することこそが、生涯を通じてパスキンの活動の中心であった。油絵具を用いても、それは技法上、線描画に淡彩を施すのに近い方法で使われている。また前衛美術に魅せられ、その影響を受けながらも、深入りはしなかった。造形上の最新の問題に対する意識は一部の例外的作品を除いて認められないし、継続的なものでもなかった。パスキンの制作活動の最良の部分は、そうした作品にではなく、当時の前衛美術とは無縁のところで成立している線を主体にした(水彩や油彩を施した作品をも含めた)人物画にある。
表紙に掲げた当時の作品(2)は、そうしたパスキンらしい作品で、1920年代に数多く制作された油彩による半裸の女性像のひとつである。なお、この作品にはパスキンにしては珍しく、下絵が存在する(3)。
(注釈)
(1) Yves Hemin,Guy Krohg,Klaus Perls,Abel Rambert,Pascin: catalogue raisonn
peintures,aquarelles,pastels,dessins,Paris,1987.には、2031点の作品が挙げ
られている。
(2) Ibid.,Tome1,no.498.
(3) Ibid.,Tome1,no.498.a
<国立国際美術館月報50号(1996年11月1日発行)より>