富田茶臼山古墳
とみたちゃうすやまこふん
概要
富田茶臼山古墳は香川県の東部、長尾平野の東端に位置する四国地方最大の前方後円墳である。南方の讃岐山脈(阿讃山脈)から派生した低丘陵の縁辺部に立地し、丘陵の稜線に直交するように前方部を西方に向けて築造されている。後円部に立つと長尾平野を一望でき、弘法大師ゆかりの五剣山や、高松平野との結節点に聳える白山を遠望することができる。
古墳の北側には津田川が流れ、蛇行しつつ東流して播磨灘に開く津田湾に流入している。その河口の津田港は中・近世の商業港として知られているが、津田湾を望む山丘上には東讃地域を代表する前期古墳が数多く分布し、津田湾が海上交通の拠点として古くから重視されたことを物語っている。本古墳は津田湾から長尾平野に至る要点を占め、津田湾を掌握し、高松平野に連なる長尾平野を治めた被葬者の支配領域と経済的基盤が推測される。
本古墳に関しては、江戸時代の『三代物語』が日本武尊陵と記し、『全讃史』は仁徳天皇陵、もしくはその皇子である難波皇子の墳墓と推定している。後者は当地が『和名抄』にみえる寒川難破郷に比定されることに由来し、さらに寒川皇子、讃岐国造の祖とされる神櫛皇子の墳墓とする説もある。円筒埴輪の存在が古くから知られ、地元では千壺山とも呼ばれている。後円部の頂上には妙見神社が祀られ、後円部東端には中世の石仏を祀る「弥勒庵」が存在する。古墳は、昭和10年代に県道高松長尾大内線の建設によって後円部北側を掘削され、その後の開墾や住宅建設によって前方部や墳丘裾部に改変を受けているが、総じて旧状をよくとどめている。
平成元年度に大川町教育委員会によって古墳の確認調査が実施され、墳丘や周濠の規模や形態が明らかになった。
古墳は前方部・後円部ともに3段に築成されている。墳丘は全長139メートルの規模をもち、後円部の高さは15・7メートルで、前方部に比べると2・4メートルほど高い。後円部の直径91メートル、前方部の長さ四八メートル、前方部の幅77メートルで、前方部の長さが後円部に比べて短い点に形態上の特徴がある。段築の斜面長は、後円部が下から1対1対3、前方部が同様に1対1対2の比率をもち、畿内の大型前方後円墳に共通した築造企画が認められる。段築の平坦部には埴輪列が巡る。
周濠は現存する地割にその痕跡が認められ、早くからその存在が指摘されていたが、調査によって規模と形態が確定した。周濠の幅は後円部東側で幅13メートルとやや狭いが後円部両側と前方部の最大部両側、前方部前面が約20メートルの同一幅に設計されており、全体としては前方部で幅を狭めた盾形の平面形となる。深さは墳丘1段目から2メートル前後で、周濠を含めた古墳の主軸総長は163メートルである。
南方の丘陵側には、周濠の外側に幅15メートルの周庭帯が認められる。周庭帯は丘陵面よりも3〜4メートル低く、墳丘1段目とほぼ同レベルにあることから、丘陵を切断し古墳築造の基盤面として一体に形成されたことが分かる。この周庭帯は前方部北側の対称位置や後円部北東側にも遺存地割として認められる。
埋葬施設は未調査のため不明であるが、明治時代に後円部の墳頂部を掘削した際に、石室の天井石を掘りあてたという伝承がある。
出土遺物には、円筒埴輪や朝顔形埴輪のほかに、家形や蓋形などの形象埴輪の細片がある。円筒埴輪は器面が剥離するなど残りが悪いが、制作時の器面調整は縦刷毛後に連続する横刷毛を施したものが多い。透し孔は円形で、タガは断面台形のものが主流を占め、外面には黒斑が認められる。
本古墳の築造時間は、円筒埴輪の特徴や古墳の形態、築成方法などから、5世紀前半と考えられる。古墳時代前期の讃岐は、瀬戸内海沿岸地域でも独自の古墳文化を形成した地域である。積石塚の発達と前方部の中ほどがバチ形に屈曲したり、長方形の前方部をもつ特異な形状の前方後円墳の盛行を特色とする。こうした地域的特色は、富田茶臼山古墳が出現する5世紀前半頃から急速に消滅の方向に向かっている。東讃地域をみると、津田湾を中心に築造された5群15基の前期古墳が知られているが、それらの古墳群は古墳時代中期まで継続せずに、富田茶臼山古墳の出現を契機に急激に衰退する現象が認められる。富田茶臼山古墳の傑出した規模や、墳丘形態・築成方法にみられる畿内的色彩の強さを考慮すると、畿内政治勢力と緊密な結び付きを背景に、瀬戸内南岸ルートの四国東端の要衡である津田湾を掌握し、東讃地域を統合した有力な首長の出現が推測される。
以上のように本古墳は四国地方最大の前方後円墳であるとともに、四国地方における古墳時代の政治や社会の動向を考究する上でも高い学術的価値を有している。
よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。