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岡山城跡

おかやまじょうあと

概要

岡山城跡

おかやまじょうあと

城跡 / 中国・四国 / 岡山県

岡山県

岡山市丸の内・後楽園

指定年月日:19870530
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

岡山城は、元亀元年(1570)、宇喜多直家が金光宗高の石山の居城を奪取し、天正元年(1573)、沼城より石山の城に移って大改修の工を起して築城に着手したのに始まる。築城の工は子の秀家に引き継がれ、慶長2年(1597)には天守が竣工して、城下町の大綱が定まった。秀家時代に成った岡山城は、現岡山城の原形をなしている。即ち、旭川の流路を背後から東に繞るように付け替えて背後を固め、本丸を核に、南西部に二ノ丸・三ノ丸を配している。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で敗れた秀家の後を受けて備前・美作両国50万石を領した小早川秀秋は、更に城の整備を進めたが、慶長7年(1602)、継嗣のないまま病没して小早川家が断絶すると、翌慶長8年(1603)、姫路城主池田輝政の五男忠継が備前に封ぜられて岡山城主となり、池田家による岡山藩政の基礎をつくるとともに、岡山城の改築、とりわけ西ノ丸の修築を行った。慶長20年(1615)、忠継病没の後を受けて、弟の洲本城主池田忠雄が封を継ぎ、本丸の改修等、城郭の修復を行った。寛永9年(1632)、忠雄死去後嫡男光仲が跡目を嗣いだが、因幡・伯耆両国を領有して鳥取城に居を構えていた従兄の池田光政と国替となり、光政が岡山城主、光仲が鳥取城主となった。これ以後幕末まで池田時代が続いたが、火災による本丸本段の修復等を除いては、岡山城の改造は行われなかったので、岡山城は、元和・寛永の池田忠雄時代に築造が終了したこととなる。
 完成された岡山城は、北・東2方を旭川で囲まれた3段構の本丸を核に、内濠を隔てて2郭より成る二ノ丸内屋敷の曲輪が南から西に設けられ、その外側の濠をはさんで二ノ丸を配し、二ノ丸の外側は、内部を濠で3郭に区切った三ノ曲輪で固め、さらにその外側を外濠で囲んでいた。その後貞享3年(1686)、藩主池田綱政は、津田永忠を奉行として、旭川を隔てた城の対岸城北浜村地内等に後園建設の計画を樹てて普請に着手した。後園(後楽園、特別名勝)はこれ以後幕末まで逐次整備されていった。
 現在城跡は、本丸跡の大部分を除いて完全に市街地化され、二ノ丸以下の諸曲輪跡には、断片的に若干の石垣と西ノ丸西手櫓(重要文化財)が遺存しているに過ぎない。しかしながら、本丸の石垣はよく故態を遺し、旭川をはさんだ本丸跡と後園の一帯は、城郭の旧状をとどめている。よって今回、本丸跡の大部分、通説宇喜多直家時代の旧本丸跡といわれる二ノ丸跡のごく一部及び後園を史跡に指定して保存をはかることとし、二ノ丸跡・三ノ曲輪跡等に残存する石垣等については、調査が完了し次第追加指定していくこととする。
 岡山市街地のほぼ中央に位置する。備前を統一し戦国大名に成長した宇喜多直家が、それまであった国人金光氏の城砦を改築し、さらにその子秀家が天正18年(1590)から慶長2年(1597)にかけて手を加え、原形を作った。関ヶ原の戦後、小早川秀秋が城主となり、その死後は池田氏32万石の居城となって、明治維新まで続いた。城郭の整備は寛永期まで継続し、完成をみた。北東隅の本丸を中心に、二の丸、三の曲輪、三の外曲輪が南西方向に拡張する典型的な梯郭式の配置をとっている。現在は本丸部分を残し市街地化している。北から東側にかけて城地の足下をえぐり、さらに二の丸及び三の曲輪の外郭に沿って南に流れる旭川を天然の外堀とし、さらに旭川を隔てた地に、光政の子綱政により本丸を凌ぐ広さの庭園(のち後楽園と呼ばれる。特別名勝)がつくられた。追加指定対象地は県立図書館の建設地で、事前の発掘調査により内堀北辺の石垣をはじめとする遺構が検出されたことから、建設場所を南に移し、石垣の保護を図った。建物部分を除く地域に関し、条件が整ったことから追加指定し保護の万全を期そうとするものである。

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キーワード

本丸 / / 石垣 / 城跡

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