方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔
ほうこうじだいぶつでんあとおよびせきるい・せきとう
概要
S51-12-032[[方広寺石塁]ほうこうじせきるい]及び[[石塔]せきとう].txt: 昭和44年4月12日史跡指定された方広寺石塁と耳塚、馬塚と呼ばれる2基の五輪塔のうち、耳塚は前庭を伴う高さ約6メートル、直径約26メートルの塚上に巨大な五輪塔を配置したものであるが、塚の後方に続く平地で遺跡としての意味を持たない地域を指定解除する。
S42-6-068[[方広寺]ほうこうじ]石塁および石塔.txt: 方広寺は豊臣秀吉が建立した寺で、天正14年(1586)に着工、雄大な構想のもとに造営された。しかし、慶長元年(1596)の大地震で崩壊し、のち秀吉の死去、秀頼の再興と鐘銘に端を発する大坂冬の陣等があり、豊臣氏の盛衰を象徴する感がある。旧寺域外周におかれた巨石をつらねる石塁が、家康が造った秀吉の石塔や耳塚とともに方広寺の遺構として指定された。
平成26年10月 追加指定・名称変更
方広寺石塁および石塔は、方広寺の石塁と方広寺に関連する石塔2基からなる。
方広寺は京都市東山区にある天台宗の寺院で、その旧境内は豊国神社、国立博物館、三十三間堂の敷地を含む広大なものであった。天正14年(1586)、豊臣秀吉によって計画され、文禄4年(1595)にはほぼ完成し、父母の法会を大仏経堂で執り行っている。文禄5年閏7月13日の大地震により、大仏殿と中門は無事であったものの、大仏は大破し、秀吉は大仏再建を行わないまま、慶長3年(1598)に死去した。豊臣秀頼は慶長4年に方広寺の再整備を決意するが、慶長7年鋳造中の大仏から出火し、大仏殿も炎上してしまう。慶長13年(1608)、再度大仏復興を企図し、慶長16年6月に地鎮祭、同8月に立柱式を行い、翌慶長17年に大仏に金箔が押され、台座・敷石が敷設されるなど大半が完成した。慶長19年に梵鐘が完成するが、梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」が問題となり、大仏開眼供養の延期が命じられるとともに、大坂の陣が起こり、豊臣氏は滅亡する。
元和元年(1615)、家康は秀吉を祀った豊国神社の破却を命じ、方広寺は妙法院の管理するところとなった。寛文2年(1662)、地震で破損したことを契機に大仏は江戸幕府の命により鋳潰され、銅銭に改鋳され、寛政10年(1798)、落雷により、大仏殿・楼門等の伽藍も焼失した。明治に入り、方広寺境内地が上地され、明治8年(1875)豊国神社造営、明治25年京都博物館建設等により、現境内は往時の北西隅に縮減された。外周の石塁は一枚岩の巨岩を用いるもので、正面(西面)、北面と南面の一部が地上に遺存している。昭和44年、この石塁が方広寺の遺構として、2基の石塔(馬塚・耳塚)と合わせて史跡に指定された。馬塚は豊国神社南東隅の狭小な国有地に存在するもので、元和元年(1615)、破却された豊国廟に代わって秀吉の墳墓として造立されたものである。また、耳塚は豊国神社の西、正面通の南側にあり、墳丘上に巨大な五輪塔を安置するもので、江戸時代の文献や絵図に「耳塚」とみえる。
平成12年、緑地公園整備に伴って行われた、(財)京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査や平成25年の範囲確認調査等によって、大仏殿基壇上面の四半敷石敷き、礎石据付穴、大仏台座石組み、基壇南辺の地覆石・羽目石、南階段耳石、基壇西辺及び西辺の地覆石抜き取り溝、大仏殿建設時の足場柱穴等が検出され、豊臣秀吉創建期と秀頼再建期の規模及び構造の一端が明らかとなった。また、京都国立博物館の再整備に伴い、平成6年から平成21年にかけて断続的に行われた発掘調査により、既指定の南辺石塁が東側に延長し、南門跡と回廊跡も良好に遺存していることが明らかとなった。博物館の再整備はこれらの遺構を保存して実施された。
以上のように、これまでの発掘調査により方広寺に関連する重要な遺構の存在が明らかとなったことから、追加指定を行うとともに名称変更を行い、保護の万全を期すものである。