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龍造寺高房宛て豊臣秀吉朱印状写 (龍造寺藤八郎知行割之事)

りゅうぞうじたかふさあてとよとみひでよししゅいんじょううつし

概要

龍造寺高房宛て豊臣秀吉朱印状写 (龍造寺藤八郎知行割之事)

りゅうぞうじたかふさあてとよとみひでよししゅいんじょううつし

文書・書籍 / 安土・桃山 / 佐賀県

豊臣秀吉

とよとみひでよし

江戸時代(原本は天正18年正月8日)/1590年

紙本墨書

縦27.2cm 横167.7cm

1通

佐賀県佐賀市松原2丁目5-22

公益財団法人鍋島報效会

天正8年(1590)、肥前国30万9902石の知行割(配分)について豊臣秀吉から出された朱印状。宛所は「龍造寺藤八郎」すなわち龍造寺家を相続した高房である。
筆頭の佐嘉郡・小城郡の知行割として、龍造寺政家・高房父子の知行高が示されているほか、龍造寺一門や重臣7名に対する知行高と知行地が指定されている。そのうち1人で万石を超えるのは、後藤善次郎(家信/1万4000石)・龍造寺六郎次郎(長信/1万70石)・龍造寺七郎左衛門(家晴/1万9188石)の3人と、4万4500石の鍋嶋加賀守(鍋島直茂)。一門・重臣中で鍋島直茂(1538~1618)が最高を占めている。さらには、高房に割り当てられた京の賄料と佐賀の台所料を合計すると4万2100石にしかならず、直茂一人の石高を下回っている。また9000石を割り当てられている「龍造寺いせ松」とは直茂の子勝茂(1580~1657)のことであり、龍造寺父子の合計高よりも直茂・勝茂の合計高の方が上回っている。
「直茂公譜」によると本状発給の2カ月後には、「直茂公へいよいよ国務を勤めらるべき旨台命あって、肥前国三拾五万七千三拾石の御朱印御頂戴ある。尤も竜造寺御家督の義は藤八郎殿(高房)へ仰せ付けらる由なり。時に政家公、久保田へ御隠居、大俣五千廿四石御隠居分の御朱印出る」とある。このことは、龍造寺政家の隠居と高房の家督相続、そして鍋島直茂の国政担当が公儀により認められたことを意味している。

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