城之越遺跡
じょうのこしいせき
概要
遺跡は、上野市域最南部、周囲を低丘陵で囲まれた一・五キロメートル四方の小盆地の東端に所在する。遺跡の西方約七〇〇メートルのところを流れる木津川は、七キロメートルほど北流して上野市市街地西端に達し、そこから山間部を西に向かい、笠置・山城地方へと続く。
平成三年度に実施された、県営圃場整備事業に伴う発掘調査によって、古墳時代に築造された三か所に湧水源をもつ大形の溝(以下大溝という)とともにそれを取り込むように古墳時代から中世まで連続的に推移する竪穴住居跡群や掘立柱建物群が発見された。
後述するように、大溝は石組、貼石、立石で修景されており、出土遺物からみて祭祀の場として造られ使われたものである。また、竪穴住居跡は総数二九棟以上、掘立柱建物跡は総数五〇棟以上が検出された。
発掘調査の区域は、低丘陵の裾から北西になだらかに下る水田中の微高地であり、約一三、〇〇〇平方メートルの範囲である。
遺跡全体での遺構の変遷について概説する。まず古墳時代前期後半(四世紀後半)頃、竪穴住居が広く散在するとともに遺跡の北半部中央に大溝が素掘りの形で構築される。続いて大溝上流部に護岸の貼石や岬部分の立石、湧水部での石組が施される。この時期には、大溝以外には顕著な遺構がなく、大溝とそれに接続する広場状の空間は独立した祭祀の場として存在する。次に五世紀に入ると、大溝での祭祀は継続するものの大溝自体は埋没し始め、周囲に竪穴住居や掘立柱建物が造られてゆく。古墳時代後期(六世紀)には、大溝の立石や貼石部にも埋没し祭祀の存在もわからなくなる。周囲では倉庫状建物を含む掘立柱建物が多くなってくる。続いて奈良時代に入ると大溝は完全に埋没し、遺跡全体に掘立柱建物が建てられ、竪穴住居も造られる。大溝の上部埋土に「建」の墨書をもつ土器が入る。平安時代から中世にかけては建物が疎らになる。
この遺跡の最大の特徴は、大溝の形態と性格である。
大溝はその上流端(南西側)においてそれぞれ一二〜三メートルの間隔で三か所の湧水をもち水源としている。うち西端の湧水部は素掘りの窪地状を呈しているが、中央と東端の湧水部には桝状の石組を設け、水の浄化と水量調節を行っている。中央と西端の湧水から、それぞれ幅二メートルほどの流路が形成される。合流点では岬状の地形を造成し、五〇センチメートルほどの高さの石を立石状に組み込んでいる。両岸部には拳大の石を貼るようにまた小口積みのように詰め並べている。この合流点から約一五メートル下流において、東端の湧水からの流路と合流しここでも岬状の地形を造成している。この岬にはやや大型の石が集積しているが、もとは階段状の構造で水面に下りる施設と考えられる。流路はここから一本で幅約五メートルの素掘り溝となり北西に流れる。検出された溝の長さは約五〇メートルであるが、溝は近畿日本鉄道伊賀線路敷を越えてなお続くことが判明している。岬や貼石護岸上方の台地状および広場状の一定の区域には建物などの遺構は存在しない。
遺物は主として大溝から検出されている。土器では、小型丸底壺(胴部穿孔付を含む)と高杯(内部朱彩付を含む)が多い。木製遺物では、日常品、建築部材のほか刀形、剣形、飾弓、案などが出土されている。これらのことから、大溝とこれに接する場所で祭祀が行われていたことは確実であり、かつ、祭祀関係の遺物がほとんど流路から検出され、湧水部自体からの出土品が僅少であり、湧水を清浄に保っていたことから、湧水自体を聖なるもの、聖なる地として祭祀が行われたと考えられる。
この遺跡を含む集落全体の構造はまだ把握されていないものの、古墳時代の集落における祭祀形態と明確な祭祀場の関係を知る上で類例の少ない貴重な史跡である。
さらに、この遺跡のうちの大溝とそれに接するある範囲の空間は、曲線を多用した流路、岬状の貼石などから、単なる水源や流路としての機能を越えたものと確認できる。そこには景観造形上の美意識とそれを表現する技術の存在が十分にうかがわれ、飛鳥時代以降に次第に形成されていく伝統的日本庭園の造形美と技術の系譜を考える上で庭園史上の価値が極めて高い。