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唐津松浦墳墓群
 葉山尻支石墓群
 大友遺跡
 森田支石墓群
 桜馬場遺跡

からつまつらふんぼぐん
 はやまじりしせきぼぐん
 おおどもいせき
 もりたしせきぼぐん
 さくらのばばいせき

概要

唐津松浦墳墓群
 葉山尻支石墓群
 大友遺跡
 森田支石墓群
 桜馬場遺跡

からつまつらふんぼぐん
 はやまじりしせきぼぐん
 おおどもいせき
 もりたしせきぼぐん
 さくらのばばいせき

史跡 / 弥生 / 九州 / 佐賀県

佐賀県

弥生

唐津市

指定年月日:19661219
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

S42-1-016[[葉山尻支石墓群]はやまじりしせきぼぐん](佐賀県唐津市大字[[半田]はだ]).txt: 五基の支石墓と多数の[[甕棺墓]かめかんぼ]からなる弥生時代の墓地である。昭和27年、8年の発掘調査により、支石墓の上石の下から甕棺や[[墓壙]ぼこう]が検出された。

平成26年10月 追加指定・名称変更
 唐津平野は佐賀県の西北部に位置し、玄界灘を北上すると壱岐島に、さらに北上すると対馬島、そして朝鮮半島にいたる。この地域は朝鮮半島と常に関わりをもちながら、歴史や文化を形成してきており、こうした環境にあることから、菜畑遺跡が水田稲作を我が国でいち早く受容した遺跡として、史跡に指定されている。
 史跡葉山尻支石墓群は唐津平野の東部、飯盛山から延びだす標高約20mの丘陵斜面に所在している。昭和26年、碧玉製管玉をもつ甕棺墓が検出されたことから、昭和27から28年に発掘調査が実施され、4基の支石墓が検出された。この遺跡は大陸文化との交流を知る上で重要であることから、昭和41年、史跡に指定された。
 さて、唐津平野及びその周辺にはこのほかにも、さまざまな弥生時代の墓地遺跡がある。大友遺跡は東松浦半島北端、玄界灘に面した海岸部に所在する遺跡である。弥生時代早期にあたる夜臼式期に造られた支石墓の下部構造は石を土坑の壁沿いにめぐらせる「石囲いの土坑」であり、北部九州の支石墓のなかでも朝鮮半島の様相に近い。そして、これら最初期の支石墓を取り囲むように形成された支石墓の下部構造は土坑に変化する。弥生時代前期にあたる板付Ⅰ式併行期になると、初期に形成された支石墓群とは別の場所に、土坑墓群が認められ、弥生時代前期中葉から後葉の伯玄式・金海式の段階には単独の甕棺墓が営まれるようになる。甕棺墓は、下甕に上甕を覆い被せたような埋置形態のものや、単純に甕を倒置させたものもある。副葬品として、南海産のオオツタノハ製腕輪や、ゴホウラ製腕輪など多様な貝輪や、玉類などが出土した。
 森田支石墓群は、唐津平野を臨む丘陵上に所在する。昭和40・41年の九州大学・フランス極東学院による合同調査によって16基が確認され、そのうち2基を発掘調査した。支石墓の下部構造は割石を墓坑にめぐらせる「石囲いの土坑」であり、大友遺跡の様相と同じである。
 桜馬場遺跡は、唐津湾に臨む砂丘列上に位置する。遺跡は防空壕の掘削に伴って偶然発見され、後漢鏡、大刀、巴形銅器、有鉤銅釧などが昭和19年に出土し、昭和32年重要文化財に指定された。その後当該地は宅地化が進む中、現状保存されてきたが、開発計画がおこったことから、平成19年、唐津市教育委員会によって確認調査が実施された。その結果、弥生時代中期の甕棺墓7基とともに、昭和19年に発見された甕棺墓については、墳丘の遺存はなかったものの墓坑と思われる場所を再調査することができた。その際、甕棺を設置したと思われるくぼみが確認され、そこから出た甕棺片と過去に出土した甕棺とが接合し、甕棺等が発見された時の出土位置図とも概ね一致したことから昭和19年に発見された甕棺墓の位置を特定することができた。また、別の地点からは弥生時代中期末から後期初頭の甕棺が新たに検出され、仮に合わせ口の甕棺墓であったとすると、本来は2基の甕棺墓が存在していた可能性が考えられる。出土遺物としては銅鏡片、巴形銅器があり、昭和19年に発見されたものと接合した。このほかヒスイ製勾玉、ガラス製管玉、ガラス製小玉などが2400点あまりと非常に多数確認されるとともに、大刀は素環頭大刀であることが判明した。
 唐津平野は、朝鮮半島と非常に近いという地理的な環境の中、史跡葉山尻支石墓群や大友遺跡、森田支石墓群では弥生時代早期から弥生時代前期における新たな墓制である支石墓などの様相を知ることができる。しかも、単棺・複棺共に倒置させる特徴的な埋置方法がとられている。また、桜馬場遺跡は再発掘により甕棺墓の位置が特定され、副葬品の内容も明らかとなった。唐津平野は中国の歴史書『魏志倭人伝』に記載された「末盧国」に比定されているが、桜馬場遺跡はその王墓と目される。
これらの墳墓群は弥生時代における新たな墓制受容のあり方、唐津平野における弥生時代前期から後期に至る墓制の変遷、さらには北部九州における墓制の地域性を知る上で重要である。また、桜馬場遺跡は「末盧国」の王墓とみられ、『魏志倭人伝』に記載されている「伊都国」や「奴国」の王墓と具体的に比較検討できることとなった。よって、史跡葉山尻支石墓群に大友遺跡・森田支石墓群・桜馬場遺跡を追加指定し、指定名称を「唐津松浦墳墓群」に変更し、大友遺跡・葉山尻遺跡・森田支石墓群・桜馬場遺跡を一体として保護を図ろうとするものである。

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