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旧集成館
 附寺山炭窯跡
   関吉疎水溝

きゅうしゅうせいかん・つけたりてらやますみがまあと・せきよしそすいこう

概要

旧集成館
 附寺山炭窯跡
   関吉疎水溝

きゅうしゅうせいかん・つけたりてらやますみがまあと・せきよしそすいこう

史跡 / 九州 / 鹿児島県

鹿児島県

鹿児島市吉野町

指定年月日:19590225
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

集成館は島津斎彬の創設命名にかかる施設で、軍備充実及び殖産興業のため営んだ、いわば綜合的な工場集団とも称すべきもので、その技術は洋式に則った。
即ち嘉永5年冬磯邸内に反射炉を設置したのに始まり、ついで熔鉱炉及び鑚開台を設け、更に硝子、陶磁器、農具、刀剣、氷白糖、地雷、水雷等の製造工場を起した。また、ガス及び電気の試験も行っている。斎彬の死後消長はあったが、造兵事業を主とすることになり、硝子工場を併せ行った。文久3年7月薩英戦争のため反射炉を除き焼失、戦後は各砲台の大小砲、砲彈の製造に從い、遂に反射炉は取壊され、鑚開台も破損した。ついで機械製造工場を作ることになり、元治元年10月工場の建築に着手し、慶応元年4月、轆轤台、鉋台、捻製作、道具等の据付を終った。またついで英国よりも機械を購入したといわれる。
集成館の敷地は磯邸の西に隣り、背後に山を負い、前面は海に面する。現存の遺構は旧機械製造工場1棟と反射炉跡である。前者は敷地の西部に、後者は東部にある。
機械製造工場は寄棟造の石造平家建で正面約42間、奥行約7間、極めて細長い建物である。内部は広濶な部分及びこれと間仕切をもって境した部分の2室から成っている。
反射炉は低い壇上にある。嘉永5年建設の反射炉は煉瓦の土貭悪るく、改修して安政3年春1基竣功、ついて同4年夏更に1基を増設したが、現存のものはその後二者の一つであらう。約28尺に約25尺の広さを深さ約3尺乃至4尺堀り下げ、切石をもって構築された遺構が存するが、竈部煙突部はすべて失われている。その機能については詳でない点もあるが、2竈1基の基礎と灰孔部等と推定され、また三方に暗渠がめぐっている。
集成館の事業は明治2年9月に中止し、廃藩置県後は官有となり、大砲製造所と改称した。その後軍有を経て民間に払下げられ、消長はあったが機械製造工場として使用、大正4年6月に至って中止した。同12年6月尚古集成館と称せられ今日に至っている。
幕末においては、各藩はそれぞれ軍備の拡充と産業の振興につとめたが、薩藩は鋭意西洋の技術を導入し、その設備の充実せる、製造品目の豊富且つ独自なる、当時において極めてすぐれている点が多かった。いま盛時の遺構に乏しい憾があり、また改変のあともあるが、なお往時の景況を偲び得べく学術上価値ある遺跡である。

平成25年3月27日追加指定分
 今回、追加指定を行うのは、集成館に白炭を供給した寺山炭窯跡と、集成館への用水施設である関吉の疎水溝、既指定地北側の水路遺構である。寺山炭窯跡は、反射炉等の燃料として白炭を製造するため、集成館の北北東約5.5キロメートルの地点の山中に建設された炭窯跡である。紀州熊野地方の炭窯を参考とし、現存する碑文等によれば、安政5年(1858)に3基の大窯が建設されたことが知られる。現存する一基の窯は、斜面地を利用し、地山を切って溶結凝灰岩の切石を積み上げたもので、高さ約3メートル、内部は楕円形で長径約6メートル、短径約5メートル、入口は幅約1メートルで、上部にはアーチ状の石が渡されている。平成23年度に鹿児島市教育委員会が発掘調査を行い、炭窯の稼働状況や煙道を確認した。
関吉の疎水溝は、元来、新田への灌漑用水と島津家別邸仙巌園(せんがんえん)への給水を目的として、集成館の北西約4キロメートル離れた、稲荷川支流の棈木川(あべきがわ)から取水するもので、18世紀前半に造られたとされる。その後、斉彬の時代に、流路を一部変更して、集成館事業の動力水車等に水を供給するために利用された。近代以降、改変が進んだが、取水口一帯は当時の状況をよく残し、水をせき止めるため岩盤を加工したと思われる遺構が確認された。また、指定地北側の後背地には、溶鉱炉と鑚開台に分岐する部分の水路、鑚開台に向かう水路、溶鉱炉へ向かう水路が現存し、指定地内に続いている。溶結凝灰岩を三面に組んだ開渠水路であり、仙巌園に向かう疎水溝から分かれ、集成館に流れた水路の終点部分であると考えられる。
このように、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝及び指定地北側に残る水路遺構は、いずれも旧集成館の経営に欠かせない燃料や動力源に関わるものとして重要である。よって、旧集成館に寺山炭窯跡、関吉の疎水溝及び指定地北側に残る水路遺構を追加指定するとともに名称を変更し、保護の万全を図ろうとするものである。

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