姨捨(田毎の月)
おばすて(たごとのつき)
概要
現在の境捨は,冠着山(1,252m)や三峰山(1,131m)などを中心とする聖山高原が善光寺平に臨む北東面の傾斜地のうち,標高約460mから約560mの範囲こ展開する約25haの棚田地帯である。棚田地帯め中央を千曲川の支流である更級川が北流し,三峰山から地滑りによって堆積し安山岩風化粘土の混じる砂礫層をを深く浸食している。この他滑りによって発生した姥石,姪石,子袋石,甥石などの顕著な巨石が棚田地域に散在している。
嬢捨の棚田は,元禄10年(1697)に上流の大池から水を導くために廃水堰を建設したのに伴って開発されたものと伝える。安永6年(1777)の大池普請(改勧)までには大池堰水系で約42haが開田され、明治10年(1877)には約85haにまで増加し,ほぼ現在見る棚田地域が完成したものと考えられている。
姨捨の棚田地域から南に展開する冠者山を含めた姥捨山の一帯は,平安時代頃から観月の名所として名高く,『古今和歌集』(913年成立)に所収する「わが心なぐさめかねつさらしなや壊捨山にてる月を見て」を最古の例として,『更級日記』や『新古今和歌集』などにも月を詠んだ約40首余りの和歌が撰じられている。天正6年(1578)の製作とされる狂言本『木賊』には嬢捨の「田毎の月」が初めて登場し,江戸時代になると棚田開発が不きく進展するのに伴って、姥捨山だけでなく棚田の一枚一枚の水田に映る月かげが俳諧や紀行文の題材として注目されるになった。とりわけ,芭蕉の詠んだ「おもかげや姥ひとりなく月の友」の俳句が,長楽寺境内に遺存する明和6年(1769)の紀年銘を持つ「芭蕉翁面影塚」なる石碑に刻まれて今日に伝えられているほか、安政年間以前の建立と考えられる別の句碑には、江戸時代の画家であった景山三千香が天保3~4年(1832~33)頃に月待ちのひとときを詠んだと思われる「青空を田島のいろや夕日影」の俳句が刻まれている。
俳諧だけでなく,「冠着山」「更級川「田毎月」「姥石」「小袋石」など,嬢捨を構成する13の風景や景物を措いた『信州更級郡姥捨山十三景之図』や『放光院長楽寺十三景之図』(善光寺道所図会」所収),あるいは観月の名所として痍捨の千枚田を情緒深く描く『信濃更科田毎月鏡台山』(広重「六十余州名所図会」所収)など,旅行や紀行のための絵画テーマとしても「姥捨の田毎の月」はさらに喧伝されるようになった。
近代には、。平安時代の物語文学である「大和物語」に題材を得た井上靖の「姥捨」をはじめとして、農村の貧困状態を背景とする老女の遺棄伝説の舞台としても紹介されたが、堀辰雄の「姥捨記」にも代表されるように月の名所としての名声は衰えなかった。
以上のような,鏡捨における伝統的な「田毎の月」の景観を保護するためこ,姥石や芭蕉の句碑などが残る長楽寺境内を展望地点として,そこから望まれる四十八枚田と、姪石を展望地点として,そこからの望むことの可能な約3haの棚田地域を、それぞれ名勝に指定し保存を図ろうとするものである。