磯間岩陰遺跡
いそまいわかげいせき
概要
S54-12-037[[磯間岩陰遺跡]いそまがんいんいせき].txt: 磯間岩陰遺跡は、和歌山県の西南部、紀伊水道に面した田辺湾の最奥部にある。この地域は、第3紀の丘陵が海岸近くせまって複雑なリアス式海岸を形成し、河川の堆積とそれに伴う砂浜の形成によって陸化したかつての島々や半島の崖面には、多数の海食洞窟が残されている。磯間岩陰は、現在の海岸線に接した南北約200メートル、東西幅約50メートル、比高20メートルの軟質砂岩からなる独立丘陵の西面にあり、前面幅約23メートル、奥行約5メートル、高さ約5メートルの規模をもち、この付近では最も大きな岩陰である。
昭和44年、所有者の宅地工事に伴って、多量の土器と鹿角製品、人骨等が出土したため、翌45年3月に田辺市教育委員会と帝塚山大学考古学研究室による緊急調査が行われた。
調査の結果、岩陰内部のテラス状の石棚の上につくられた石室8基と火葬跡5か所が発見された。これらの遺構は岩陰の風食による細砂の堆積でおおわれていたが、各石室のいずれにも封土のあった形跡は認められず、本来岩陰内にむき出しの状態であったものと考えられる。8基の石室はいずれも竪穴式石室の形態をとるものであり、副葬品の内容から、5世紀末から7世紀前半にかけて営まれたものと考えられる。
最大の1号石室は、長さ2.9メートル、幅0.7メートル、高さ0.7メートルの規模をもち、石室内部には、60歳前後の老人と幼児の2体が向きあいで埋葬され、副葬品として、直弧文の装飾をもつ大小2口の鹿角装の鉄剣、鉾、鏃等の武器と、鹿角製の鳴鏑、釣針、鉄製の釣針、土師器等を納めていた。石室外にも鉄製銛、鹿角製組合式釣針、土師器、須恵器等の副葬品が置かれていた。1号石室以外の2号〜4号石室においても、2体〜4体の合葬例が確認されており、この時期の合葬資料として注目される。最も規模の小さい5号石室は、長さ幅とも1.0メートル、高さ0.3メートルで、右足親指に貝輪をつけた6歳くらいの幼児1体を埋葬していた。6世紀末〜7世紀前半の7号石室には人骨の遺存はなかったが、石室内の上下2層にわたって120個以上の須恵器を副葬していた。また、5か所の火葬跡のうち最も古い1・2火葬跡では、生焼けの人骨とともに金銅製耳環6個が出土しており、7世紀に遡る火葬例として注目すべきものである。
同一岩陰内に、8基の石室をつくり、同一石室内に数体を合葬したこの岩陰墓の性格については、石室出土の13体の人骨の詳細な分析を待って判断すべきであるが、1号石室に副葬された鹿角装の剣・鉾等の武器と、鉄製あるいは鹿角製の銛・釣針等に代表される漁撈的色彩の強い副葬品の内容から、前期から中期にかけて永く古墳文化の空白地帯であったこの地域に、5世紀末になって登場した漁撈集団の首長とその一族の墓地とみてほぼ誤りないであろう。
この岩陰墓の構造は、古墳時代中後期の墓制として、他にほとんど例のみられないものであり、その優れた副葬品の内容とともに、古墳文化の波及に伴って形成された最も地方色の明瞭な墓制の一例として、重要なものである。