出羽仙台街道中山越
でわせんだいかいどうなかやまごえ
概要
出羽仙台街道中山越は奥州街道から分かれて出羽に通ずる峠越の一つで、江合川の北岸沿いに、現在の国道47号線・国鉄陸羽東線と並行して走る。奥州街道吉岡宿(宮城県黒川郡大和町)より分岐し、中新田(加美郡中新田町)、岩出山(玉造郡岩出山町)、鳴子(同郡鳴子町)、境田(山形県最上郡最上町)を経て、羽州舟形(同郡舟形町)に通ずる道である。古代においても、本街道が走る江合川沿いの狭隘な低地は、蝦夷征討のために多賀城より出羽柵に赴く道路であった。
本街道は参勤交替路ではなかったが、元禄12年(1699)の「仙台藩御領分絵図」に明示されており、文化文政以後は沿道の鳴子が湯治場として利用されることが多くなり、鳴子周辺の銅山開発が行われたこともあって賑わいをみせた。街道の宿駅の一つである尿前(鳴子町)には、伊達藩の番所が置かれ、現在その屋敷跡が確認されている。
元禄2年(1689)3月、門入の河合曽良を同道して奥州行脚に出立した松尾芭蕉は、平泉(岩手県平泉町)から引き返し出羽の尾花沢(山形県尾花沢市)に出ようとして、この街道を通った。5月14日岩手山に1泊、翌日鳴子、尿前関を通過した。当時はまだ人のあまり通らない道であったようで、関守に怪しまれてようやくにして通ることができたと芭蕉は「奥の細道」に書いている。
本街道のうち今回指定するのは、主として宮城県鳴子町分で、これに一部山形県最上町分が加わる。国道等と重複している部分を除き、全延長4・2キロメートルを指定対象地とした。昭和52年度以来、現地調査や関係史料の収集に努め、道筋を確定し、現在廃道になっているところを復旧するなどの保存整備事業を実施し、昭和56年度に完了した。道幅は調査結果に基づき、1間半(2・7メートル)を標準とし、急勾配のところには石や松丸太で階段を設け、路面には川砂などを敷いた。また道標・標識・説明板を適宜設けて利用者の便に供することにした。
本街道は奥の細道の一部として著名なものであり、旧道の残りもよく、その歴史的価値が高いことから史跡指定し保存を図ろうとするものである。