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北谷遺跡

きたやついせき

概要

北谷遺跡

きたやついせき

史跡 / 関東 / 群馬県

群馬県

高崎市

指定年月日:20050714
管理団体名:高崎市(平17・11・1)

史跡名勝天然記念物

 北谷遺跡は関東平野の最北部、榛名山東南山麓の裾野に広がる、標高145mの台地上に立地している。平成12年、民間開発に伴い群馬町教育委員会が試掘調査を行ったところ、古墳時代の豪族居館の存在が確認され、その内容を確認するための発掘調査を実施してきた。
居館は東西方向に延びる二つの谷と、谷を結ぶ形で南北方向に掘削された二つの濠によって囲まれており、平面形は一辺90m四方の方形を基調とする。その本体側の谷や濠の斜面には、基盤層に含まれる角礫を用いた石積みが施されていた。削平された南辺を除く3方の周囲には2箇所の張出しがある。西辺の2つと北辺の東側の張出しは、幅7.5から15m、長さ10mの台形である。北辺の西側については、幅30m、長さ35mのL字形であり、他のものよりも大きく、その周辺からは石製模造品が出土した。館内部においては、部分的な調査により一辺10mを越える大型の竪穴建物の存在が確認されている。
東側と西側の濠は基底部の幅が32から34m、深さが3.2m以上である。西側の濠の外側には最大幅約30mの盛土による堤が確認され、北側と東側の濠の間は土橋状の施設で隔てられている。また、北側の谷と西側の濠では自然河川や谷地形の湧水が引きこまれ、貯水が行われていたと考えられている。
居館は古墳時代中期の5世紀後半に始まり、濠に榛名山の噴火による火山灰が堆積していることから、6世紀初頭には衰退に向かった。調査で確認された張出しは現地形にも反映しており、内部の竪穴建物の遺存状況も良好であることから、廃絶後は大きな改変を受けていないと考えられる。
この居館は、約3km離れた三ッ寺Ⅰ遺跡と同じ規模及び形態であり、共通した規格で築造されたと見られる。三ッ寺Ⅰ遺跡の発掘調査成果によれば、内部には大型掘立柱建物や竪穴住居等が計画的に配置され、導水施設をもつ祭祀空間を伴い、金属器生産が行われていたこと等が明らかになっている。時期は北谷遺跡とほぼ同時期か若干先行し、北西1kmのところにある全長100m前後の前方後円墳3基からなる史跡保渡田古墳群の被葬者に関わる居館と考えられている。

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キーワード

遺跡 / 竪穴 / 掘立柱 / 建物

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