東蝦新道記
とうかしんどうき
概要
・寛政10年(1798)、近藤重蔵守重は幕府の命令で東蝦夷地を巡視し、国後・択捉に渡り、帰途立ち寄った広尾で、たまたま風雨のため滞在を余儀なくされ、広尾から日高に至る海岸の険に道路をつけようと、資を投じ、アイヌ数十人を雇って、ルベシベツ(広尾町)からビタタンケ(えりも町)の間、約3里(11キロメートル)に山道を開削しました。
・この道路開削は一行の最上徳内の献言といわれ、従者下野源助(水戸の学者木村謙次)の指揮によるもので、工成るのあと、下野源助は、榜示を建て、通行の人々に道路の維持を訴え、更に漢文で工事の顛末を記し彫字板として刀勝神祠に掲げました。
・現在の彫字板は旧板が傷んだことから万延元年(1860)箱館奉行の茶湲・鈴木尚太部重尚らが再書、再鐫したものです。
・東蝦新道記とは、東蝦夷地に新道を開削したという意で、原名は寛政10年以降にこの地を通った探険家、旅行家の記録に見られます。