大和国乙木庄条里坪付図
やまとのくにおとぎのしょうじょうりつぼつけず
概要
畿内均等名【きんとうみよう】の事例としても知られた大乗院領大和国山辺郡乙木庄(現、天理市)の鎌倉時代後期の耕地配分状況を示した条里坪付図である。
図は、文書料紙を翻した楮紙九紙を継いで料紙とし、南を上に太い墨線をもって方格の条里を描いている。図中に描かれた条里は一一条七里・八里、一二条七里・八里の計四八坪で、各坪並は千鳥式で表記される。各坪は短冊型の耕地に分割され、佃、名田、屋敷等の種別や名請人、年貢高などの記載があり、これによれば乙木庄四三町一段一〇八歩のうち、領主佃は同庄のほぼ中央部を中心に一町九反を占め、庄民の屋敷は一九か所を数えるが、そのほとんどは半折型である。名田は預所、下司名のみに「名」表記がみえ、他は「善縁」などの人名表記のみで、合計一九人が佃、屋敷各々一反ずつを各人均等に名請しており、これら田地に対する年貢は一律に一石四斗、名田部分は一斗から六斗となっていた。
本図に描かれた乙木庄の歴史的景観は、中央に佃を、東に長屋郷からの式内社である夜都伎【やつき】神社、西に庄民の屋敷聚落と、さらに西方に庄民の耕作田地といった形式で、東から西へ緩い傾斜をもって展開していたことがわかり、これら耕地配分の基本型が条里制に基づくものであることを明らかにしている。
紙背文書はいずれも庄関係のもので、文永二年(一二六五)三月二十日某田地寄進状案など、本図の作成時期を考える上で参考になる文書も含まれる。なお、内閣文庫蔵「大乗院文書」中には、料紙に紙背文書がない点などを除くと内容が注記記載に至るまで全く一致するものが伝来しており、おそらくこの猪熊本とは正草の関係にあったものと考えられる。乙木庄は、この絵図以外に関係史料に乏しいが、本図は鎌倉時代後期の畿内均等名庄園の実態を余すところなく伝えて貴重である。