中条家文書
なかじょうけもんじょ
概要
中条家文書は、中世越後国奥山庄に盤踞した三浦和田氏の惣領中条氏に伝来した古文書で、建久三年(一一九二)十月廿一日付の将軍家政所下文を上限として江戸時代に至る二百三十三通が、未成巻のままに裏打を施した状態で伝わっている。
拠点となった奥山庄地頭職は、和田義茂の後、弟宗実、義茂の子高井重茂、その妻津村尼によって相伝され、嘉禎四年(一二三八)に家督を相続した時茂の代に奥山庄の経営が本格化し、地頭請所化に成功する。鎌倉時代後期以降所領の分割相続によって一族の内部の対立も深刻さを増すが、室町中期には惣領の庶子に対する統制を強めつつ家臣化を促進し、同族黒川氏と共に揚北【あがきた】の有力国人領主に成長する。上杉氏の領国下においては外様として自立性を保ち、慶長三年(一五九八)上杉景勝の会津移封に伴って、のち米沢に転じ、上杉家臣として維新を迎えた。
本文書はかかる中条氏の歴史を反映して、その中心をなすのは鎌倉から室町時代前期の文書である。いずれも所領の分割譲与に関する譲状や、幕府の安堵状、あるいは所領関係の文書がまとまっている。文書中には、源頼朝の征夷大将軍就任に伴う、袖判下文から将軍家政所下文への移行時期に発給された建久三年十月廿一日将軍家政所下文や、のちに惣領中条・南条関沢・北条黒川をおのおの惣領とする鼎立体制成立への契機となった建治三年(一二七七)十一月五日道円(高井時茂)譲状などの注目すべき文書が少なくない。また中条藤資に宛てた永禄十一年(一五六八)拾一月晦日上杉輝虎起請文などの古文書学上にも注目される文書も含まれている。
このように中条家文書は、とくに東国武士の惣領を中心とした一族の結合形態を明らかにし、惣領制による分割相続から庶子被官化を前提とした嫡子単独相続制への移行など、中世領主制研究上にみるべきものが多い史料である。