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白河結城家文書

しらかわゆうきけもんじょ

概要

白河結城家文書

しらかわゆうきけもんじょ

その他 / 鎌倉 / 南北朝 / 室町 / 東北 / 福島県

福島県

鎌倉~室町

90通

白河集古苑 福島県白河市中田7-1

重文指定年月日:19960627
国宝指定年月日:
登録年月日:

白河市

国宝・重要文化財(美術品)

 本文書は奥州白河結城家の直系に伝来した古文書である。結城氏は小山政光の子朝光が源頼朝によって下総結城を安堵されて結城氏を称したのに始まり、孫の広網の弟祐広は鎌倉後期陸奥白河に移り白河結城家の祖となった。その子宗広は鎌倉幕府の追討に功あり、建武政権下で北畠顕家をたすけて諸方を転戦し、延元三年(一三三八)伊勢で客死するが、子の親朝は東国南朝側の有力武将として活躍し、やがて南朝側勢力の退潮のなかで尊氏側に降った。結城氏はその後顕朝、満朝、氏朝を経て直朝の時代に最盛期を迎え、南奥州に地歩を固めるにいたったが、一族小峯氏との内訌などによって衰え、義親の時代に伊達氏の支配下に入った。こうした結城氏の文書は、惣領職をめぐる白河宗家と小峯家の争いや天正十八年(一五九〇)秀吉の奥州仕置による改易没落によって分散化を余儀なくされたが、この白河結城宗家の文書は義顕の子朝綱が秋田佐竹家に仕えたことにより、辛うじて現在に伝わったもので、本文書中には江戸時代の分家結城朝文家(出羽小峰家)伝来文書四通が含まれている。
 本文書はこうした結城氏の歴史を反映して、文永元年(一二六四)十月十日関東下知状を上限として親朝から氏朝時代にいたる文書九〇通を数えるが、特に元弘三年(一三三三)から康永二年(一三四三)までの十年間の文書がまとまっていて、南北朝内乱期における宗広・親朝父子の活動や親朝をめぐる関東・奥州の情勢を考えるうえに重要な史料である。またこれらの中には、時代的特徴を示す北畠親房・顕信御教書などの斐紙小切紙文書や、親朝の右筆の存在を示す案文などが含まれていて古文書学上にも注目される。

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