韮山役所跡
にらやまやくしょあと
概要
韮山役所跡は、韮山町の東部の丘陵端に所在する江戸幕府の世襲代官であり、代々太郎左衛門を名乗った江川家の幕府代官役所跡である。
江川氏は、清和源氏宇野頼親を祖とし、初め大和国奥之郷宇野にいたが、のちに伊豆国八牧郷江川に移った。十代治長は源頼朝の挙兵を助けて江川荘を安堵され、二十一代英信の時に姓を江川に改めた。戦国期以降は後北条氏の配下にあったが、二十八代英長は小田原攻めの際に徳川家康に従い、慶長元年(1596)世襲代官に任用されたのである。初期の幕府代官は在地領主的な者が多かったが、江戸中期までに多くは職を解かれた。その中で江川家は幕末まで世襲代官として残り、所管地も元禄期頃には伊豆、相模のほかに武蔵も支配したとされる。三十六代英龍の時には、伊豆、駿河、相模、武蔵に加え天保9年(1838)に甲斐幕領を加えて12万石余を支配し、晩年の安政元年(1854)には武蔵での支配地を拡大し、26万石余を支配した。
韮山代官の役所は、江戸と韮山に分かれ、江戸では武蔵、相模、甲斐を、韮山では伊豆、駿河を管轄した。支配地が広大であることから補助機関として三島陣屋(旧三島代官所)が機能し、さらに手代たちを配した出張陣屋が年貢徴収や民政全般に対応した。
韮山代官としては、伊豆の島方支配、御林山管理、代官貸し付け金融、綿羊、甘藷等の殖産興業の仕事も行った。特に、文人坦庵として著名な三十六代英龍は、早くから海防問題に注目し、幕府の軍事顧問として軍制改革に関わり、反射炉による大砲の鋳造や農兵設置に尽力するとともに、敷地内に江川塾(後の旧制韮山中学校)を開設する等、地域の子弟の教育にも力を注いでいる。
明治維新後も韮山役所跡は、韮山県庁として引き継がれ、英龍の子英武が知事を務めた。また、廃藩置県による韮山県解体後も、伊豆管轄のための役所が置かれ、郡役所が江川家の敷地外に出るまで、伊豆地域の政治の中心として機能したのである。
現在敷地内には、江戸時代初期に建てられた江川家住宅の主屋や、中期の仏間、鎮守社、後期の門、武器庫、書院などの重要文化財の建物が残り、代官役所跡としての佇まいを今に遺している。
このように、韮山役所跡は、世襲代官として地域に根ざした活動をし、かつ広大な地域を支配し、幕末には軍制に関わりをもつなどした江川氏の遺跡として、当時の建物も良好に残っており、我が国の近世の地方支配の在り方や歴史を考える上で極めて重要な遺跡であることから、史跡として指定し保護を図ろうとするものである。