多羅尾代官陣屋跡
たらおだいかんじんやあと
概要
多羅尾代官陣屋跡
たらおだいかんじんやあと
江戸時代初期から世襲で代官を務めた多羅尾氏の居館兼代官所跡で「信楽役所」「信楽陣屋」とも呼ばれた。多羅尾代官は、光太を初代とし、光弼間での10代に渡って代官職を世襲した。2004年度に実施した裏庭園の試掘調査では、2層の整地層が確認され、上層下位の堆積層から肥前磁器片が出土していることから江戸時代後期に修築されたと推定される。多羅尾家に残されている建物棟札には、純門により嘉永2年(1849 )に小書院の建替えされたことが記され、また北庭園内に社殿の石灯籠の竿部に「藤原純門」の記名があり、多羅尾純門が代官職にあった天宝8年(1837)から慶応3年(1867)の間に陣屋全体が修築された可能性が高く、北庭園の2社が並立する西社殿から発見された棟札から、純門により嘉永元年(1848年)に天満宮が再造され明治36年(1903年)に屋根の葺替えが判明した。また東社殿からは宝暦6年(1756年)銅製の銘がある小型鏡5面に梵字の書いた神体が確認されていることからも江戸時代後期に代官陣屋が整備された様子が伺える。代官陣屋の敷地は、南北にやや弧を描くようにのび、陣屋建物や庭園があった上段の曲輪と蔵屋敷が設けられていたと伝えられる下段の曲輪に別れ、その中ほどに東から入る正面入口を設けられる。 現存する建物はないが、聞き取りや現地調査によって、主屋、表庭園、裏庭園、代官蔵、墓地などの位置がそれぞれ比定でき、明治末年から大正頃に撮影されたと推測できる古写真によって茅葺の主屋に格式の高い瓦葺の玄関を備えていたことがわかる。また、周囲の山林には「多羅尾古城跡」や「多羅尾城山城跡」などの中世城館も確認され、当陣屋跡を居館とする中世の城砦群になる可能性がある。江戸期を通じて世襲代官は少なく、韮山代官の江川家、京都代官の小堀家などごく少数である。当該遺跡は、古写真も残っており、明治期から大正期にいたるまで、現状の経過をよく伝えている。遺構は、江戸時代後期と見られる切石積みの石垣や、裏庭園の試掘調査では、江戸時代後期に庭園が修築され、現在の窪地部分に水が引かれていたことなど判明しており、近世の旗本屋敷及び代官屋敷の面影を残す貴重な資料である。
甲賀市指定
指定年月日:20120927
記念物