西高木家陣屋跡
にしたかぎけじんやあと
概要
西高木家陣屋跡は旗本西高木家の陣屋跡で,揖斐川(いびがわ)の支流(しりゅう)牧田(まきた)川が形成した河岸段丘上に位置する。高木家は江戸時代を通じて同地を支配し,宗家である西家と,北家・東家の三家からなり,「交代(こうたい)寄合(よりあい)美濃(みの)衆(しゅう)」として大名と同等の格式を許されていた。同家の担った重要な役割に川通(かわどおり)御用の役儀があり,木曽三川の治水行政にあたった。西高木家の陣屋は伊勢街道に東面し,その街道側の段丘崖を中心に石垣が構築され,埋門(うずみもん)も整備された。北側に上屋敷,南に下屋敷が構えられ,上屋敷西側に墓所を営んだ。屋敷絵図と古文書の調査から,天保3年(1832)に陣屋の大部分の建物が焼失し,その後,建物の主軸を大きく変えて,陣屋が再建されたことが判明し,発掘調査によっても地下遺構が良好に遺存していることが確認されている。近代以降,西高木家の敷地は上屋敷を中心に徐々に縮小し,明治年間建造の主屋と嘉永5年(1852)建造の下屋敷御門を移築した長屋門,土蔵(解体し,部材を保管)が残っている。さらに高木三家に伝来した古文書群は10万点にも及ぶ。西高木家陣屋跡は交代寄合美濃衆としての役儀を担った旗本西高木家の陣屋跡として石垣等の遺構が良好に残り,かつ膨大な高木家文書の伝来によって近世における旗本領主の実態を明らかとする遺跡として極めて重要である。