Otomoshiiseki

大友氏遺跡

Details

Otomoshiiseki

大友氏遺跡

史跡 / 安土・桃山 / 九州

大分県

大分市顕徳町

指定年月日:20010813
管理団体名:

史跡名勝天然記念物

大分市街地の南東部,大分川河口部付近の顕徳町一帯は,戦国時代に北部九州一円に覇を唱えた大大名の大友氏が守護所を置いた地で,豊後府中・府内と呼ばれた。大友氏は,相模国を本貫地とする鎌倉御家人の後裔で,16世紀の中頃から後半にかけて最盛期を迎えた。21代の宗麟はキリシタン大名として著名で,南蛮貿易に積極的に参画し,北部九州6か国を支配したが,天正14年から15年(1586〜7)に島津氏の侵攻を受け,22代の義統は朝鮮在陣中の戦線離脱を理由に文禄2年(1593)に豊臣秀吉によって除封された。
 戦国時代の大友氏城下町を描いた近世成立の「府内古図」と明治期の地籍図,遺称地名などとの照合によって推定復元された「戦国時代府内復元想定図」(『大分市史』)によれば,豊後府内の範囲は東西約0.7km,南北約2.2kmの壮大な都市域を有する。その中心となる大友氏館跡は,北東部が南側に歪み,南東部が南側に張り出す,一辺約200mの不整方形を呈すると推定される。大分市が実施する区画整理事業に伴う移転代替地として,大友氏館跡比定地の一部が予定されたために,大分市教育委員会が平成10・11年度に発掘調査を実施したところ,南東部において東西約83m,南北16m以上の長靴状の平面形を呈する,巨岩の景石を配した庭園遺構を検出した。
 また,西側外郭推定線付近で計画されたマンション建設に伴う発掘調査では,16世紀前半の土塁遺構,後半の大規模な整地層,掘立柱建物跡などが検出された。北辺西隅部の発掘調査では6本の溝跡が検出され,溝跡は2本が一対となる築地跡と推定され,順次北側へ拡張されている。中心部の発掘調査では,15世紀から16世紀の遺物を含む1m以上の整地層と,径1m強の根固め石を詰めた土坑が7基検出された。2回から3回の切り合いが認められ,大型の建物跡の存在が推定される。
 出土遺物の特徴は,(1)大量の土師器皿,(2)茶器,(3)館跡遺構の年代よりも古い中国陶磁器,(4)華南・東南アジア陶磁器の出土などが挙げられる。(1)は出土遺物の大半を占め,様々な儀礼,饗宴で使用されたハレの器である。(2)(3)は大友氏の茶の湯文化と家格の高さを示す。(4)は南蛮貿易によってもたらされた器物である。フロイスの『日本史』には,天正14年末から15年の島津氏の侵攻によって,府内が焼亡壊滅したと記されている。庭園遺構からの出土陶磁器のかなりのものには,火熱を受けた痕跡が認められ,館が焼き払われ,庭園も破壊されたと推定される。
 大友氏館跡は北部九州,西国の戦国時代史の重要な中心地の一つであり,方二町の室町幕府の規範を遵守する守護館の典型を示すものである。よって史跡に指定し,保護を図ろうとするものである。

令和3年 追加指定
大友氏遺跡は戦国大名大友氏の領国支配の拠点となった遺跡で、大分市街中心部の東部、大分川河口付近の左岸に形成された微高地に位置する館跡(大友氏館跡)と菩提寺である禅宗寺院万寿寺跡、それらを一望する南西約800mの丘陵先端部に位置する上原(うえのはる)館(やかた)跡(あと)からなる。守護所が置かれた大友氏館跡と万寿寺跡は、絵図や地籍図等から想定復元される南北約2.1km、東西0.7kmの城下(府内)の中核となる遺跡である。
大分駅周辺総合整備事業に伴い、平成10年度に開始された大分市教育委員会による発掘調査において、館跡が一辺約200m四方の方形を呈し、その南東部に景石を配する東西長66m以上の庭園跡が存在すること、中央部に儀式や祝宴の中心となった大型の建物跡(主殿跡)が存在すること等が明らかとなり、平成13年に大友氏館跡として史跡に指定された。
平成13年度に大分市教育委員会によって実施された民間葬祭場の建設に伴う調査で、万寿寺跡の南を画する堀跡が確認され、その後の大分市教育委員会や大分県教育委員会による発掘調査で、北側や西側の堀の存在も明らかとなった。万寿寺は、徳治元年(1306)に大友貞親(第5代)が博多承天寺の直翁智侃(じきおうちかん)を開山に招いて建立された臨済宗寺院である。「蒋山(まこもさん)略記(りゃくき)」には、三門が南に開き、仏殿、法堂(はっとう)、東西の方丈を中央に配置し、七堂伽藍も備えている一般的な禅宗式伽藍配置であったことが記されている。16世紀中頃~後半の時期に巨大な堀で囲まれた寺域は、南北360m、東西250m以上であり、国内広域流通品、中国・朝鮮半島産の遺物などから、対外交易の拠点として機能していた。天正9年(1581)の火災で、七堂伽藍をはじめとした主要建物が焼失し、天正14年(1586)の島津氏侵攻の際の兵火で万寿寺はそのほとんどが灰燼に帰した。平成17年に万寿寺跡を大友氏館跡に追加指定し、名称を大友氏遺跡と変更した。
また、主郭が東西112m、南北156mの規模を有する上原館跡は、大友氏館跡の発見以前は、大友氏の唯一の館跡と考えられてきたものであるが、政務や儀式を行う大友氏館跡に対し、戦いに備えた軍事的役割を担うもうひとつの館跡との再評価がなされ、平成26年にその一部が追加指定された。さらに、「府内古図」に「御蔵場」等の記載がある。大友氏館跡南側の推定御蔵場跡の一部が平成27年に、同じく「唐人町」とみえる、館跡北東部に近接する地域の一部が平成28年に追加指定された。
今回追加指定の対象となるのは、万寿寺跡の東側の箇所である。既指定地に連続し、万寿寺跡の一部をなすことは明らかであることから、追加指定し、保護の万全を図るものである。

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