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焼山の墾田碑

やきやまのこんでんひ

概要

焼山の墾田碑

やきやまのこんでんひ

住居建築 / 江戸 / 九州 / 佐賀県

佐賀県

江戸後期/1839年11月

自然石の上に亀形の台石を据え、その背中に直方体の記念石碑を載せる独特の亀趺形の石造物である。亀趺の頭部の「獣首」は武雄側を向き、尻尾が大きく、その先端は上を向いている。また、記念石碑は、亀趺が据わっている方向と並行する形で立っている。上方には0.1mの張り出しが設けられ、その下に龍文様が浮彫りされている。

亀趺 全長1.5m 幅0.6m 高さ0.4m
記念石碑 高さ1.4m 幅0.5m 厚さ0.3m

1基

佐賀県武雄市東川登町大字永野2349番1

武雄市指定
指定年月日:20110325

有形文化財(建造物)

 焼山の棚田は、当時の地主相賀照宗が地元の稲富・中尾・永石家を代表に大勢の人々を雇い、享和年間の初め頃(1801年~)から開墾したものであり、約6haの広さを占めている。相賀家は、上瀧村の庄屋を努める家筋で、照宗は、その焼山の新田開発の功績によって士分に採り立てられた。照宗の跡は、弟の照一が受け継ぎ、塚崎宿「壱ツ屋」を開業している。
 墾田碑は、その相賀照宗・照一の業績をたたえて建立されたもので、当時の開墾状況が窺える貴重な史料でもある。その碑文は、儒学者で幕府の表右筆を努めた男谷孝や佐賀藩の学者草場佩川ら、当代を代表する儒学者によって「篆・撰・書」がなされているが、彼らが、何故このような関わりをもっているのかは不明である。或いは、この墾田が単に個人的な事業ではなく、佐賀藩あるいは武雄邑主の強い後押しによって遂行されたことを暗示しているようでもある。
 また、記念碑の構造は、中国の儒学思想に由来する「亀趺」という形式であり、本来は大名や貴族などの墓石・墓前、寺社・貴人の顕彰など、身分を規定して限定的に用いられるものである。江戸時代に、このような「墾田」という行為の記念碑に対して、その採用が許されていることも、極めて異例といえる。県内での事例としても、多久市(西渓公園)「大宝聖堂之碑」・佐賀市(城内)「明治七年戦役の慰霊碑」など僅かしか確認できない。
 なお、制作に携わった筒井幸右衛門は塩田石工の棟梁であり、円応寺の鳥居型石門(1798年)や鹿島市能古見の宝筐印塔(1819年)、塩田町五町田八天神社の石灯籠などを手がけた名工である。

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武雄 / 佐賀 / 長崎 /

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