長光寺薬師堂及び宮殿
ちょうこうじやくしどうおよびくうでん
概要
長光寺薬師堂及び宮殿
ちょうこうじやくしどうおよびくうでん
長野県
江戸中期/貞享元年(1684)
薬師堂
薬師堂は、梁間三間(6.70m)、桁行三間(7.32m)、寄棟造、茅葺(鉄板仮葺)、妻入の仏堂で、一間の向拝(鉄板葺)をつける。方三間であるが、奥行きが少し長い。平面は、奥行きの半分を外陣とし、内陣の後半に仏壇を造り、中央に宮殿を安置する。
向拝は、自然石の上に方形礎盤を置き、面取り角柱(太さ19cm)を立てる。柱に水引虹梁を架け、両端に独特の繰形の象鼻をつける。組物は連三斗・実肘木とし、中備は蟇股とする。軒は、一軒繁垂木で、打越垂木とする。母屋との繋虹梁はなく、細長い手挾(彫りの浅い渦を施す)を入れる。
母屋は自然石(一つは石灯籠の部材を転用)の上に円柱を立て、縁長押・内法長押を打ち、頭貫を通す。頭貫には独特の繰形の木鼻を付け、下に渦、上に若葉の木鼻、下に渦・若、上に渦があり、先端が上向きの木鼻の2種類がある。母屋の円柱の内、内陣まわりの円柱は外側を八角のままとして円に仕上げていない。柱の太さは29cm前後であるが、結界部分の柱の太さは31cmとやや太い。
宮殿
宮殿は、方一間、入母屋造、板葺、妻入の建物である。土台の上に円柱を立て、腰長押・縁長押・内法長押を打ち、頭貫(木鼻付き)を通し、台輪を置く。台輪より下には彩色があり、柱は黒漆塗の上に金箔を散らし、縁長押・内法長押は朱漆塗とし、草葉文切り金具の釘隠を打つ。頭貫木鼻は黒漆塗とし、渦・木口は朱漆塗とする。正面中央、内法長押の上に蟇股が付くが、頭貫より上の台輪を支えるような変則な形となっている。
○薬師堂
・梁間三間、桁行三間、寄棟造妻入、茅葺形鉄板 葺、短い箱棟(後補)、向背一間桟瓦葺
・軸部の長さ・・・梁間6.70m 桁行7.32m
・縁の長さ・・・梁方向9.10m 桁方向9.82m
・軒の長さ・・・梁方向12.10m 桁方向13.00m
・梁間と桁行とは実寸法を異にし、棟には箱棟を置くが、三間堂方形造を基調においた建築。
・身舎内は、前から1間半入りに結界の円柱を立て、外陣・内陣を立てる。結界柱直径31cm、須弥壇前柱直径28cm
1棟及び1基
長野県安曇野市明科光691番4
長野県指定
指定年月日:20110929
長光寺
有形文化財(建造物)
医王山長光寺は、犀川右岸の長峰山(標高933m)の西麓にある。寺は真言宗に属し、高野山金剛峯寺の末寺である。松本藩主水野氏が江戸時代中期の享保9年(1724)に編纂した『信府統記』によると、「高野山竜光院末寺ナリ、(中略)当寺開基年数知レズ」となっていて、当時すでに創建年代や開基などは不明となっていたこと、またかつては高野山金剛峯寺子院の竜光院の末寺であったことがわかる。
文献史料上での長光寺の初出は、松本藩主石川氏が天正18年(1590)以後に実施した天正差出し検地の記録である『両部郷村御朱印御高附』に、「一百六石七斗七升 光村此内(中略)壱石ハ長光寺・宗源寺」とあるもので、当時長光寺・宗源寺(現宗林寺)の両寺合わせて朱印高1石を所有する寺であったことが知られる。
延宝元年(1673)の『麻績組草高並小物成指出帳』中には「真言宗源明山長光寺」と見えていて、山号が現在と異なっている。この頃の住職は権大僧都秀恵と推定される。秀恵は、長光寺の中興開山で、延宝8年(1680)9月29日に示寂した由を、寺蔵の『長光寺世代表』は伝えている。
なお寺の伝承では、秀恵の中興開山の時期を天正10年(1582)としているが、示寂の年から考えると疑問である。