光久寺薬師堂
こうきゅうじやくしどう
概要
光久寺薬師堂
こうきゅうじやくしどう
長野県
江戸中期/元禄3年(1690)
薬師堂は、梁行三間、桁行五間、寄棟造、鉄板葺(もと茅葺)、妻入の仏堂である。桁行五間のうち、四間部分が主屋で、一番奥の一間(実寸で4尺)の部分は下屋となっている。軒は一軒疎垂木であるが、これは、前述の屋根改造による。平面は、奥行の半分の位置に結界を設け、内陣は背面側の奥行き一間を通しの仏壇とする。
軸部は、自然石の基礎に、柱を立てる。柱は、側柱は太さ16cm前後の角柱とし、内部に立つ内陣・外陣境の柱と仏壇前面の柱を太さ23cm前後の角柱とする。側柱に緑長押、内法長押を打ち、腰貫2段・飛貫を通し、縦羽目板張りとし、柱頂部に丸桁を置く。縁は切目縁で、縁先に軒を支える柱を立てる。この支柱は縁束の柱筋に立ち、縁框を受け、飛貫を通し、軸部の側柱とは虹梁で繋ぎ、柱頂部に舟肘木・丸桁を置いて垂木を受けている。支柱のうち正面中央の2本の柱は太さ15cm前後のやや太めの向拝柱とし、側柱との繋ぎ虹梁の下端に錫杖彫りを施し、舟肘木には忍冬唐草文を描く。この向拝の前面に木階3級を設けている。
母屋の正面は、中央間を両折れの腰高格子、脇間を嵌め殺しの腰高格子戸とする。内法長押上の四周の小壁板には百人一首の墨書和歌と彩色の歌人を描く。
母屋内部、外陣・内陣境の結界の建具は、三間とも低い位置に腰貫を入れ、格子戸とする。中央間は嵌め殺しとし、脇間は引き違いとする。
厨子は春日厨子で、内部にさらに一回り小さい厨子を安置する。春日厨子は正面及び両側面に板扉を設け、全体を弁柄で彩色する。扉上下に長押を打ち、下長押の下、内法長押上の羽目を蓮子状にして緑青の彩色を施す。正面の扉は黒塗り、側面の扉は弁柄塗りとする。内部の厨子は白木仕上げで一部に彩色を施す。扉裏に「再興」・「慶安三年」の墨書があり、慶安3年(1650)造立のものと推定される。
○梁行三間 桁行五間 寄棟造妻入り 桟瓦葺(元 茅葺)ほぼ東面
○軸部長さ・・・梁行6.08m 桁行8.15m
○縁の長さ・・・梁方向8.15m 桁方向10.42m
○軒の長さ・・・梁方向10.68m 桁方向12.11m
1棟 附 厨子1基、内厨子1基、棟札1枚
長野県安曇野市明科中川手5773番
長野県指定
指定年月日:20110929
光久寺
有形文化財(建造物)
清水山光久寺は犀川にそそぐ会田川左岸、長峰丘陵の高台に立つ真言宗高野山金剛峯寺の末寺で、現在は無住である。かつては字塔中山を中心として大伽藍を構えていたといわれている。戦国時代に甲斐武田氏の信濃進攻時兵火に遭い、建物の大半を焼失し、その後、現在地に移ったと伝えられる。
当寺本堂に安置されていた(現在は庫裡に安置)木造日光・月光両菩薩立像(県宝)は、胎内墨書銘により、鎌倉時代末期の文保元年(1317)に開眼供養された仏像であることが明確である。
現在地に移建後もなお寺格を具えていたことが慶安5年(1652)の『麻績組大足村検地帳』によって知られ、また、慶安3年には、光久寺薬師如来の宝塔(宮殿)が痛んだので、大足・清水両村の衆力によって再興されている(薬師堂内宮殿扉裏墨書銘)。
その後しばらくして、延宝3年(1675)住持存清の代にも寺の再興があった(明治9年『長野県町村誌』)と伝えている。これらから、一時荒廃していた寺もこのころ寺運を回復して、しばらくして薬師堂建立となったものであろう。