引札「伏木港 定塚三右衛門・同回漕部」 ひきふだ ふしきこう じょうづかさんえもん どうかいそうぶ

権利者:高岡市立博物館蔵

有形民俗文化財 / 明治 / 富山県 

定塚三右衛門
じょうづかさんえもん
富山県高岡市
明治後期
紙・石版多色刷り
縦26.0cm×横37.3cm
1
富山県高岡市古城1-5
高岡市(高岡市立博物館保管)

 富山県高岡市の伏木港海岸通りの上三館・定塚三右衛門の商店広告・引札(注1)である。鮮やかなカラー印刷で、中央に子供を抱えた娘が描かれる。子供は葉書をポストに投函しようとしている。ポストには、「改正小包料□□(金表カ)」と表題がある各種料金表がある。右下枠内には洋装の娘二人が海岸で羽子板をしており、背景には富士山松や梅がみられる。右上と右下には梅花もみられ、目出度い図柄であり、正月用に配られたものと推察される。なお、よく欄外に小字で印刷人などが刷られているが、本資料にはない。
 左枠内には、「伏木港 海岸通り/上三館 定塚三右衛門/電略(ジヨ三)又ハ(三)/同回漕部/各汽船会社専属荷客取扱店/漁夫人夫募集依頼ニ応ズ」とある。右上の赤い太枠内には、「広告/弊館ハ海岸通にて/新築落成す」とある。
 業種は回漕と汽船会社専属の荷客取扱、及び漁夫・人夫募集周旋業をしていたと分かる。しかし、明治21年(1888)初版の『中越商工便覧』(注2)に掲載された定塚三右衛門の広告には「北陸北海両道其他各港行/汽船乗客荷物取扱所/諸国廻船問屋/諸講社御定宿/伏木港中道町中程」とあり、上記の他にも「諸講社御定宿」、つまり旅館業や、また図中の看板から「日本郵船会社汽船乗客切符取扱所」、「陸海軍用旅舎」なども営んでいたことがわかる。
 そして、明治21年当時は「中道町中程」(現在の伏木中央町)に店舗を構えていたこともわかる。引札には「弊館ハ海岸通にて/新築落成す」とあるので、より港に近い場所(現在の伏木湊町9-23の湊町公民館周辺)に新店舗を構えたこともわかる。しかし、移転の年代は不明である。
 年代の記載はないが、ポストの絵にある「改正小包料□□(金表カ)」表内に「内地台湾間」とあり、台湾が日本に割譲されたのは日清戦争後の明治28年(1895)であるので、それ以降と考えられる。また、引札の連絡先に「電略」(電報の際の略称)のみあり、電話番号の記載がない。伏木に電話交換が開始されたのは、明治41年(1908)1月(『高岡市史』下巻、p843)であり、開始当初から電話番号を取得していない可能性はあるが、大正期以降である可能性は低いと考えられる。なぜなら、伏木港から北海道への移民、または鰊漁場へ出稼ぎに出てゆく「北海道行き」(及び上三館のような「移民宿」)の数が明治30年代をピークとして、同41年を境に激減した(注3)とされるので、そのような時期に新規店舗を建設するとは思えないからである。
 なお、本資料の状態は極めて良好である。

<注>
1.「引札とは、商店などの宣伝のために作られた広告物で、江戸時代後期頃から昭和前期頃にかけて用いられていました。当初は木版刷りでしたが、明治30年代になると大阪の古島竹次郎や中井徳次郎など大手業者による石版多色刷りの引札が大流行します。このような大手業者は、好きな図柄を見本帳から選んでもらい空白部に商店名などを印刷する方法を採ったことで、安価に製作することが可能になりました。
明治期以降は、特に「正月用引札」が流行し、絵柄には縁起物だけでなく、近代の風俗や技術を描き込んだものなども多く見られます。そして、すぐに捨てられない工夫として、略暦(りゃくれき・カレンダーに相当するもの)を組み込んだものや双六仕立てにしたものもありました。」
(滑川市立博物館HP/近藤浩二「所蔵資料紹介/Vol.9 滑川の引札」平成29年9月21日アクセス)

2.『中越商工便覧』(川崎源太郎、明治21年初版)に掲載されている店舗を表にした「明治20年ごろの伏木町主要商店」(『伏木港史』伏木港史編さん委員会、伏木港海運振興会、昭和48年、p300)によると、広告を出しているのは29店(社)で、うち見開きの広告を出しているのは、定塚三右衛門など12店(社)である。

3.(『伏木港史』伏木港史編さん委員会、伏木港海運振興会、昭和48年)p338~343

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『伏木港概要』
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〔発行所〕伏木港振興会(伏木町役場内)、〔編集兼発行人〕田邊武松(富山県伏木町国分7番地)、〔印刷所〕越中活版株式会社(富山県高岡市定塚町1329)

『中越商工便覧』(初版)
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