肥前名護屋城跡図
ひぜんやごやじょうあとず
概要
国内を統一した豊臣秀吉による大陸侵攻の拠点として、肥前名護屋は経由拠点の壱岐・対馬への最短地であり、入江にも恵まれた適地だった。ここに天正19年(1591)10月から九州諸大名を中心とした普請により名護屋城が築かれ、周辺には諸大名等の陣屋が配置された。
本図には、名護屋城の縄張りとその周辺に配された大名等の陣屋が描かれている。類品は数多いが、本図は「陣主不明分」の書き入れを伴っており、佐賀県立名護屋城博物館所蔵のものに同様の作例がある。名護屋城の左に位置する入江(串浦)の奥に見える「鍋嶋加賀守」が鍋島直茂の陣屋を示している。陣屋は高岳という丘陵部に位置しており、130箇所を超える陣屋のうちでも最大級の規模を誇った。鍋島直茂は1万2000人の軍役を命じられ、加藤清正らと同じ二番隊に編成された。