越中北前船破船荷物分散帳等関係史料 えっちゅうきたまえぶねはせんにもつぶんさんちょうなどかんけいしりょう

文書・書籍 / 江戸 / 富山県 

富山県高岡市
江戸後期
紙本・竪帳・墨書
5
富山県高岡市古城1-5
高岡市(高岡市立博物館保管)

①『越中戸出竹村屋茂兵衛船沖船頭龍泉丸清助乗り越前安嶋浦ニ而破船荷物分散帳』
年代 文化11年(1814)12月20日
数量 1冊(墨付12丁)
寸法 縦24.1cm×横17.4cm
解説   
 文化11年(1814)10月9日、戸出の竹村屋茂兵衛(注1)と高岡の手崎屋彦右衛門の共有船「龍泉丸」(注2)が越前安嶋(あんとう)浦(現・福井県坂井市三国町安島)において難破した。仲間で話し合い、引き揚げた荷物を売り、売上銀を分配した際の記録である。
 荷物は繰綿(綿繰り車にかけ、種の部分を取り去っただけの、まだ精製していない綿)、晒蝋(精製して白色にさらした日本蝋)、木綿、古手(使いふるした衣服や道具)、藍玉(藍の葉を発酵させ、臼でついて固めたもの。玉藍/紺屋は藍玉から藍染めをする)、生姜漬、三本(盆)白砂糖(伝統的製法により特別に精製を繰り返した上等な砂糖。上白糖をいうこともある。三盆白)、蘇枋(マメ科の落葉小高木。心材と莢は、赤色染料とする)、釷丹(釦か?)、黒砂糖などである。
 荷主は手崎屋彦右衛門をはじめ、宮袋屋半助、井林屋嘉兵衛、福岡屋清右衛門、石塚屋弥助ら高岡商人のほか、戸出の尾崎屋幸右衛門もいる。
 買主は中田屋権四郎、井林屋嘉兵衛、井林屋善助、小馬出屋八兵衛、井林屋久右衛門、開発屋与兵衛、石塚屋弥助ら高岡商人である。
 具体的な商品・個数・金額やその荷主、また買主のほか、運賃、世話料など諸経費も詳細に記されている。
 また、この難破のことは、『戸出史料』(戸出町役場、大正8年/新興出版社、1984年復刻)、『戸出町史』(高岡市戸出町史編纂委員会、昭和47年)、『高岡市史』(高岡市史編纂委員会、昭和44年)などに掲載はなく、新発見である可能性が高い。
 本史料は虫損が激しい。

<注>
1.竹村屋茂兵衛尚勝(1783~1833)…戸出の豪商。武田家5代。4代長兵衛の養子。初名は万右衛門、諱は尚勝、字は義郷、号は竹坡。妻は内嶋村孫作之義(篤好の父)の娘。農業を主とし、家伝の漢方薬の製造販売、菜種、麻布(八講布)の問屋を営み、これらの品を自家用船による海上運送業と併せ、京阪のみならず全国に手広く商売をした。また学問、絵画、俳諧に造詣が深い。茂兵衛は高岡木町の鷲塚屋(大橋家)と組み砺波郡の農民に蝦夷の鰊肥を販売し、たびたび上京していた。文化8年(1811)に上京した際、海保青陵と会いその著書7冊読んで感動し、理の淵源は「洪範」であると聞いて、上京の度に青陵から学んだという。講義では、家が豊になれば国も豊になる、「則用之家、用之国」であることが強調され、青陵の『洪範談』を自費で出版するに至る。
竹村屋の先祖は伝承によると、甲州の武田氏の同族で、元亀・天正の頃(1570~92)の兵難を避けて、有峰村(富山市。旧大山町)に入って土豪となり、のち上滝(同)付近に移住した。のち砺波郡光明寺村(高岡市戸出)で百姓となり市助と名乗る。市助二男茂兵衛(初代)は竹村(同)に移住。2代長兵衛は享保(1716~36)の中頃、竹村から戸出村に移住。千保川などの地の利を得て商売をはじめ、屋号を竹村屋とした。4代長兵衛に子供がなかったので、叔父長九郎の二男伊三郎(2歳)を養子に迎えた。これが後の5代茂兵衛尚勝である。6代芳太郎も商才に長けており、寛永12年(1635)以来、高岡の特権であった布(麻布)御印押人の権限を文政元年(1818)10月に藩に願い出て、高岡から奪い取っている。
〔『戸出町史』(高岡市戸出町史編纂委員会、昭和47年、p748-750/p1442-1445)、明神明博氏HP「越中各地の見聞と講義」(2008年/2017年10月26日アクセス)〕

2.龍泉丸…竹村屋茂兵衛と高岡の手崎屋彦右衛門共有の廻船。450石積。寛政5年(1793)正月に越後中村浜の佐藤三郎右衛門らの船を300両余で購入している。ちなみに、竹村屋はこの龍泉丸のほかに、4艘の船を所有していた。 (『戸出町史』高岡市戸出町史編纂委員会、昭和47年、p700-705)

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②『大坂伊丹屋甚兵衛手船長州権現丸隠蔵船配当分散帳』
年代 文化11年(1814)8月
数量 1冊(墨付4丁)
寸法 縦24.8cm×横17.2cm
解説   
 大坂・伊丹屋甚兵衛の手船(所有船)・権現丸は912個(元直銀高159貫728匁2分8厘)の荷を積んでいたが、どうやら難破したようで、「揚荷物売代銀」(7貫307匁7分5厘)とある。そしてその内訳(銀2貫333匁1分)と、差し引き4貫974匁6分5厘が記され、最後に「元直銀壱貫目ニ附/三拾壱匁三分四厘/配当銀」とある。
 内訳は、問屋口銭、堺方諸役人中へ祝義、瀬さらへ海士雇賃、荷物積廻送用蔵敷料、堺方并ニ下ノ関両処御雨中諸入用などとみられる。
 本史料のみでは記述が少なく、事の詳細は不明だが、「同(文化)十一年四月十八 日大坂伊丹屋甚兵衛の十四人乗権現丸が伏木・岩瀬・秋田への荷を積んで堺を出帆し、下関に至り五月十六日に強風に遭う。長門国向津崎飛粟で難船し、積荷九百十二個の内五十四個(綿四十八個・薬種六個)が打ち上げられた。」(注1)との記事をネット上で見つけたが、根拠を示していない。今後の調査を要する。
 本史料には虫損がみられる。

《注》
1.明神明博氏HP「越中国史~古代から近世まで」(2011年/2017年10月26日アクセス)〕

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③『伏木能登屋三右衛門手船日吉丸分散帳』
年代 江戸後期
数量 1冊(墨付14丁)
寸法 縦24.4cm×横17.0cm
解説   
 伏木の廻船問屋・能登屋(藤井家)三右衛門の手船(所有船)・日吉丸の難破の記録。同船は大坂・堺より丸多屋仙蔵の29個ほか2名より都合122個を積み、(年代記載なし)9月3日に出帆。翌日朝、阿州那賀郡和田嶋村(現徳島県小松島市和田島)沖にて難破した。丸多屋仙蔵代理人ほか4人が現地に行き、引き揚げた荷物を選別、売却し、10月13日に彼らは大坂へ帰った。そして必要経費を差し引き、荷主10人に配当金を支払い、受取の署名・捺印をもらっている。
 この事件についても、『伏木港史』(伏木港史編さん委員会、昭和48年)や正和勝之助『越中伏木湊と海商百家』(桂書房、1995)には掲載はなく、新発見である可能性がある。
 状態は少々虫損がみられる程度である。

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④『湊屋長八船積入荷物帳』
年代 文政12年(1829)11月21日
数量 1冊(15丁)
寸法 縦24.1cm×横17.9cm
解説   
 越中氷見の湊屋長八の船の難破記録である。裏表紙には「文政十二年丑十月/湊屋長八一件」とある。
 文政12年11月3日、越後大川浦(現新潟県村上市)にて難破した。支配人は鶴屋次吉。
 荷主を商品、代銀ともに列記する。福岡屋清右衛門・玉綿(収穫したままの、種のついている綿)17個(銀4貫896匁)、中田屋権四郎・玉綿3個(銀864匁)、高辻屋与右衛門・同(同)、井林屋喜兵衛・締綿(精製綿)1本などである。福岡屋、高辻屋、井林屋は高岡商人である。
 少々の虫損がみられる。

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⑤『他国出御制禁之品等之内高岡ニ抱り候分抜書覚帳』
年代 江戸後期
数量 1冊(墨付3丁)
寸法 縦24.2cm×横18.0cm
解説   
 巻頭首題は「加越能三州共他国より入之義御停止之品」とあり、また表題から加賀藩領内から出入りが禁止された品々の内、高岡に関わる内容の抜書きとわかる。上記までのような具体的な破船とその後処理記録ではなく、加賀藩が定めた出入禁止の品々が列挙されている。年代の記載はないが、塩・大豆などの「五品津留之義、寛政八年寄合所ゟ被仰渡三州共御停止」ともあり、寛政8年(1796)に藩よりの通達も含まれている。
 また、内容に「高岡分他国出不相成品」とあり、他国へ出してはならない品々は、油糟・魚油・綿種・紙・蝋・酒・□実・醤油・干鰯・糞類などとあり、さらに追加として、武器・馬具・銅□・硝石・硫黄・菜種・諸鳥・七木・竹・石灰・蝋漆葉・瑪瑙石・楮・木材木類・雑穀・屎物類・瓦・炭薪などが列記される。
 虫損がかなりみられる。

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