榊原職直宛て鍋島直澄書状
さかきはらもとなおあてなべしまなおずみしょじょう
概要
寛永14年(1637)、天草・島原の乱の一報が幕府に届き、11月9日土井利勝宅に唐津藩主寺沢堅高とともに呼び出された初代佐賀藩主勝茂は、「各領内の儀は島原近端に候間、もし時に至り人数等入用においては下知次第差し出され然るべき」と伝えられた。これを受けて勝茂は「某儀、御暇下され両御監使同前に罷り下りたきの旨」を願ったところ認められなかったが、元茂(勝茂長男)と直澄(勝茂三男)の2人の下向は認められた(「勝茂公譜考補」)。そこで直澄は同月14日、元茂は翌日に江戸を発し島原に着陣。やがて勝茂自身も出陣し、佐賀藩勢による城攻めを皮切りとする総攻撃で翌年2月28日に一揆勢が籠城する原城跡は陥落した。
勝茂は島原着陣の直後、軍中に向けて、「日峯様(直茂)御逝去の後、我等代に成り候ての弓箭、今度初めてに候」ゆえ、この戦いには「(鍋島)家の再興」がかかっていること、「城攻めの儀、万事の手遣い紀伊守(元茂)・甲斐守(直澄)へ相任せ」ており、「我等事は年寄」であるため、「たとえ気に応ぜざる儀これ有るとも下知に随うべき」ことを命じ、「忰家の長久、この節と存じ候」というほど、元茂・直澄の指揮による統率を重視した(「勝茂公譜考補」)。本資料はその翌月、直澄が榊原職直に宛てた書状である。原城跡陥落の報告を耳にした将軍家光が御機嫌である旨を伝える奉書が、太田資宗を通じて勝茂・元茂・直澄の親子3人に下されたことを「誠に以て冥加忝く存じ奉る儀」と述べている。