年未詳二月七日付前田利光判物(瑞泉寺宛) ねんみしょうにがつなのかづけまえだとしみつしょじょう(ずいせんじあて)

権利者:高岡市立博物館蔵

文書・書籍 / 江戸 / 富山県 

前田利光 (1594~1658)
まえだとしみつ
富山県高岡市
(慶長10年~寛永6年)2月7日/(1605~29)
折紙(軸装)・墨書
縦18.9cm×横53.2cm
1
富山県高岡市古城1-5
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

 越中の古刹・井波別院瑞泉寺(現南砺市井波)からの年始の祝儀の柿一折に対する前田利光(後の利常)の礼状。「筑前守利光」とあることから、元服して利光と名を改め、筑前守に叙任された慶長10年(1605)から、名を利常と改め、肥前守となった寛永6年(1629)の間のものだと考えられる。ちなみに瑞泉寺は現在真宗大谷派だが、当時は本願寺派である(下記参照)。
 また、本史料はもと折紙であったが下半分が欠損していると思われる。

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【釈文】

為年甫祝
儀柿一折到候
別而祝着候謹言

   筑前守
二月七日 利光(花押)

 瑞泉寺
    御報

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【瑞泉寺】ずいせんじ
 南砺市井波にある真宗大谷派井波別院。山号は杉谷山。本尊は阿弥陀如来。1390年(明徳1)に本願寺5代綽如(しゃくにょ)が開いた。1847年(弘化4)以来両堂形式をとり,本堂と聖徳太子二歳像を安置した太子堂が並び建つ。
 瑞泉寺5世賢心が著した『賢心物語』などによれば,後小松天皇の時代,異国から朝廷に来た書状に難読の文字が3字あり,南都や五山の学匠も読み解けなかった。越中下向中の綽如は朝廷に呼ばれて解読し,返書までしたためたため,褒美として瑞泉寺建立の勅許を得る。綽如とされる沙門尭雲(ぎょううん)が勧進状をつくり,北陸6カ国の武将たちの協力を得て建立された勅願所である。その後,無住の時代もあったが,本願寺8代蓮如は教線拡大のため2男の蓮乗を住持させている。1470年代(文明期)に始まる一向一揆の時代には,勝興寺(現高岡市古国府)とともに越中一向一揆の中心的拠点となる。このため1581年(天正9)に佐々成政に焼き打ちされる。1602年(慶長7)ごろ,本願寺は東西2派に分かれ,瑞泉寺は西方(浄土真宗本願寺派)に属するが,勝興寺が録所として末寺の支配権をもっていたことから,支配に服することを嫌い,49年(慶安2)に東方(真宗大谷派)に移る。この際に末寺や門徒,寺宝を多く失った。東本願寺は瑞泉寺と城端善徳寺を越中東方寺院の触頭(ふれがしら)に命じ,隔月ごとに任に当たらせた。1713年(正徳3)には経済的特権をも伴う〈御坊〉に昇格している。
 本寺の特色は,木彫りの装飾に満ちた壮麗な諸堂と二つの年中行事にある。一つは7月の〈太子伝会(たいしでんえ)〉で,聖徳太子二歳像のご開帳と太子絵伝8幅の絵解きが行われる。絵解きは12世真照が始めたとされ,明和期(1764~72)ごろから多くの参詣人でにぎわうようになる。もう一つは主として農閑期に行われる宝物巡回。これには法宝物(綽如絵像,名号軸)巡回と,太子絵伝の巡回があり,巡回を通じ布教活動を行い,県内一円はもとより石川・福井の一部まで約500カ所に及んだ。寺の年間総収入の3分の2はこの年中行事から得ており,広い地域の多くの人々への布教とそれに対する懇志によって成り立ってきているが,瑞泉寺紛争もからんで最近は下火になっている。
 特色ある住職には賢心と11世常照がいる。賢心は五箇山に残る『天十物語』によると,上平村の赤尾道宗の教化を受けたとみられ,信仰上深い境地に達し地域の人々の尊崇を集めた。常照は芭蕉の直弟で俳号を浪化といい,秀句を残している。⇔瑞泉寺の内紛,綽如様御巡回〈大村 忍〉
(『富山大百科辞典〔電子版〕』北日本新聞社、平成28年12月24日アクセス)

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