縄目稜文乾漆壺 なわめしょうもんかんしつつぼ

漆工 / 昭和以降 / 富山県 

木村天紅 (1887~1950)
きむらてんこう
富山県高岡市
昭和12~25年頃/1937~50年頃
乾漆,色漆
高さ 28.9cm×径 18.1cm
1
富山県高岡市古城1-5
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

 本資料は、高岡市大仏町(現・高岡市新横町)の漆芸家・木村天紅作 縄目菱文乾漆壺である。
 乾漆の特徴である麻布が木地全体を覆うように張られている。細い縄が全体的にアクセントとして用いられており、所々網目のように掛け合わさっていたり、螺旋を描くような動きをしていたりとなかなか面白い。
 壺の口縁部には茶色の漆が塗られている。口縁部付近には細い縄が2本巻き付けられ、その間の横帯に丸い突起が一定の間隔を保ちながら並んでいる。2本の縄と突起部分には、朱漆が塗られている。
 壺の胴部には細い4本の縄で構成された4つの大きな菱形文がある。その中は甲冑のような皺皮の凹凸地の中央に細い縄で形成された円が2つと、同じく細い縄で形成された花が2つずつ交互に並んでいる。菱形部分には茶色の漆、菱形の中央の円と花、そして菱形の外側部分には朱漆が塗られている。また、壺の底面は黒漆が塗られ、中央に朱漆で「天紅」のサインがある。壺の内部も黒漆で統一されている。
 共箱の蓋裏面に、「東京・大阪/服部時計店」のシールが貼付されていることから、おそらく東京都中央区銀座に所在する服部時計店(現・和光)が取り扱っていた商品と思われる。
 作家の略伝や出品歴からみて、晩年東京で手掛けた独特の乾漆作品のひとつと思われる。
 尚、資料状態は良好である。

【木村天紅(きむらてんこう)】
 1887・9・30~1950・5・25(明冶20~昭和25)高岡漆器に朝鮮螺鈿(らでん)の技法を移入した漆芸家。高岡市大仏町に生まれる。本名は伊三次郎。県立工芸学校(現高岡工芸高校)漆工科,東京高等工芸学校応用化学科に学び,福島県立工業学校・富山県工業試験場(富山県工業技術センター)・朝鮮総督府中央工業試験場に勤務した。朝鮮総督府勤務時代に螺鈿技法の研究指導にあたり,在朝7~8年後の1921年(大正10),朝鮮工人7人を連れて高岡に帰郷。坂下町に〈朝鮮之螺鈿漆器社〉を設立して漆器生産を始める。螺鈿には鮑(あわび)の中厚貝を用い,文様の糸鋸(いとのこ)切り,割貝技法など高岡漆器に新技法を紹介。また金胎(金属の素地)や陶胎(陶器の素地)による漆器を試み,工人の白衣姿とともに文化的・産業的新風をもたらし,産地技法の幅を拡めた。37年(昭和12)ごろ東京池上に移り高村光太郎・北大路魯山人らとも交わり,絵画や書もよくした。独特の乾漆作りや彩漆の民芸的な味わいは高く評価されている。享年62歳。〈後藤義雄〉
HP『電子版 富山大百科事典』(2017年5月23日アクセス)

【乾漆(かんしつ)】
 器物などの素地 (きじ) 製作法の一つ。木,土,石膏などの型を使って,麻布などを漆糊 (生漆に姫糊を混ぜて作る) で張り重ねて素地を作る方法をいう。中国ではこれを夾紵 (きょうちょ) といい,戦国時代に現れ,漢代に多く製作された。楽浪郡古墳出土の漆器には夾紵のものが多い。また木芯の上に麻布を重ね,漆で固めた木芯夾紵も遺存する。日本では古墳時代末期に上流階級で夾紵棺が使用されるようになった。
HP『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』(2017年5月23日アクセス)

※参考資料
・『高岡三代名作美術展 目録』(高岡市立美術館・博物館、1989年)26-27頁
・『高岡漆物語』(伝統工芸高岡漆器協同組合、1996年)38-39,128頁
・『高岡工芸史料』(藤井素彦編著、高岡市美術館、2005年)50,59頁
・HP「銀座・和光」(2017年5月16日アクセス)
・盧ユニア「20世紀前半の螺鈿漆工芸における日韓関係-木村天紅と全成圭、そして朝鮮之螺鈿社を
めぐって-」『文化資源学』第14号(文化資源学会、2016年6月)

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