牛乗天神図 うしのりてんじんず

木版画 / 江戸 

〔画〕渓斎英泉/〔版元〕和泉屋市兵衛「泉市」 (1790~1848)
江戸期
紙本・木版彩色
〔本紙〕縦64.9cm×横20.3cm
〔全体〕縦150.3cm×横29.1cm
〔軸長〕33.9cm
1
富山県高岡市古城1-5
資料番号 2-10-16
高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

 江戸の浮世絵師・渓斎英泉が描いた牛乗天神像。版元は江戸の和泉屋市兵衛(甘泉堂)。資料左上には「宵(よい)のま(間)は 都(みやこ)の/空にすみぬらむ/心つくしの有(あり)あけの月」とあり、菅原道真が左遷され、はじめて博多へ上陸したときに詠んだ歌であると伝わる。
 渓斎英泉(1790~1848)は、姓は池田、名は義信、号は一筆庵・無名翁など。遊女や美人画を得意とし、多くの浮世絵や草双紙(絵入りの娯楽本)の挿絵を描いた。

渓斎英泉|けいさいえいせん|1790~1848年(寛政2~嘉永1)
 浮世絵師。父は池田政兵衛茂晴といい、武門の出であったらしく、英泉も幼時に狩野白珪斎に学んだといい、画風には基礎の確かさがうかがえる。やがて浮世絵師菊川英山の門人となる。一筆庵あるいは無名翁とも称し、小説なども手がけ、浮世絵の歴史考証の書<無名翁随筆(別名・続浮世絵類)1833>を著した。画作には遊女、芸妓に取材した美人画が多い。その日常生活は無頼を極め、一時は娼屋をみずから経営し、曲亭馬琴の日記によれば、三年余の肺病生活ののち急死したという。この破滅型の性格から生みだされる英泉の美人は、鈴木春信や鳥居清長の健康的な美人とは異なり、一種の張りがあるが暗い印象をともなう。これは化政期以降の幕末の世相を反映したものであり、1810年(文化7)の随筆<飛鳥川>に、昔は若い女が戯言をいう大変恥ずかしい風情だったが、近ごろはこちらが顔の赤くなるような返事が返ってくる、とあるように、女性自体が変化したためともいえよう。風景画には歌川広重との合作<木曾街道六十九次>がある。
<参考文献>石田尚豊他監修『日本美術史事典』平凡社,1993


江戸の芝の版元和泉屋市兵衛(甘泉堂)は、その界隈では大手で、芝出身の作者・絵師をひいきにしたことで知られている。和泉屋版の草双紙は天明頃(1781~1789)から確認できるが、作者は芝に在住している者たちが多く、芝出身の絵師歌川豊国も初期の作品の多くは和泉屋版である。特に寛政6年から8年(1794~1796)頃に制作した『役者舞台之姿絵』シリーズは豊国の出世作として名高い。
 和泉屋は、地本問屋の中には、寛政2年(1790)10月の結成当初から加入している。しかし、芝を代表する版元であったにもかかわらず、文政3年(1820)9月の時点ではまだ書物問屋仲間には加入していない。蔦屋や西村屋など日本橋方面の版元とは異なり、芝では地本と書物の両方の仲間に入ろうとする動きは見られなかったのであろうか。
 化政期(1804~1830)の和泉屋は、浮絵やおもちゃ絵といった特殊な浮世絵も多く出版している。浮絵は西洋画法である遠近法を浮世絵に取り入れたもので、おもちゃ絵は切り抜いたりして遊ぶことができるよう制作された実用的な浮世絵である。おもちゃ絵の方は、遊ばれて捨てられてしまうため現存するものが少なく、しかも化政期のものは現在では非常に稀であるが、その中では和泉屋版のものが多い。和泉屋を含め芝界隈の店には、浮絵やおもちゃ絵のように、浮世絵の中でも通常のものとは一味違う物を求める客が多かったのかもしれない。なお、芝の版元は日本橋方面の版元に比べ火災に遭うことも少なかったといわれるが、和泉屋は幕末まで芝神明前に経営を続け、明治期には教科書出版に着手している。
『江戸の版元ビック4』仙鶴堂鶴屋喜右衛門、須原屋茂兵衛、蔦屋重三郎、和泉屋市兵衛

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