博多松囃子
はかたまつばやし
概要
博多松囃子は、福神(ふくじん)、恵比須(えびす)、大黒(だいこく)の三福神を中心とする行列と稚児舞(ちごまい)から構成され、祝言(しゅうげん)を目的とした中世芸能の一つである。三福神は傘鉾に(かさほこ)先導され、神馬に乗って町内や家々を巡り、稚児舞は舞姫(まいひめ)と呼ばれる女児が謡と囃子に合わせて所定の場所で舞う。
松囃子は中世に流行した芸能で、新春に祝言を述べ種々の芸を演じたもので、松拍、松奏などとも記す。資料では、『看聞御記(かんもんぎょき)』の応永二十三年(一四一六)正月七日条に伏見庄内の郷中の村人が松囃子を仕立てて宮邸へ推参した記録などがあり、博多においては、勘合貿易船(遺明船)の副使として博多に滞在した策彦周良(さくげんしゅうりょう)の日記『策彦入明(にゅうみん)記(き)』天文八年(一五三九)正月六、七日条などから松囃子が行われたことが確認できる。また、博多の豪商神屋(かみや)宗(そう)湛(たん)の茶会記『神屋宗湛日記』文禄四年(一五九五)十月二十九日条では、筑前国主の小早川秀俊(こばやかわひでとし)(秀秋(ひであき))の命により、博多町民が名島城(なじまじょう)に赴き祝言として松囃子を披露したとあり、すでにこの時には福神と恵比須の記録がある。『博多津要録(はかたつようろく)』には、寛文八年(一六六八)四月に福岡藩から松囃子の傘鉾の布類に金銀の箔置きなどを禁ずとの達示を出したとあり、当時の傘鉾に豪華な装飾が施されていたことが推測される。さらに、儒学者の貝原(かいばら)益軒(えっけん)が元禄十六年(一七〇三)に藩主に献上した『筑前国続風土記 (ちくぜんのくにぞくふどき)』巻四には、正月十五日に、「福禄寿夷大黒天の形にこしらへ、馬にのせ、かうへの上に蓋をさしかさし、囃詞をとなふ。終りには小なる仮閣に車を仕つけ、小童をのせ、舞衣をきせ、車を引て、国君の宅に到り、猿楽の謡の曲節あるみしかき謡物をうたひ、笛ふき、大小の皷大皷を打て、祝言の舞をなさしむ」と記されており、現在の姿に共通してみられる点が多い。もと博多松囃子は正月に行われていたものであり、近世の頃には正月十五日に博多町民によって藩主黒田家への祝賀行事としておこなわれていた。明治五年十一月に松囃子を禁止する布達が出され、一時中断するなど幾つかの変遷を経て、戦後は博多どんたく港まつりのなかで行われるようになった。
博多松囃子は、豊臣秀吉の太閤町割(たいこうまちわり)に基づく博多独自の流(ながれ)という地域組織によって各役が担われ、三福神は福神流、恵比須流、大黒流の三流、稚児舞は稚児東流と稚児西流からなる。各流では町単位に当番が設けられ、三福神の三流では神面(しんめん)や傘鉾をはじめとする道具一式が昨年の当番から引き継がれる。稚児流では、東流と西流が二年毎に交替して担い、天冠渡し(てんかんわたし)などにより道具一式が引き渡される。各流が町内を巡る道順は、毎年、協議により決定し、三福神は共通の道順で福神流の後を恵比須流、大黒流が続き、稚児流は別に道順が組まれる。
当日は、五月三日早朝から各流は町内の家々を回った後、博多の鎮守社である櫛田神社(くしだじんじゃ)に集合して神職から修祓(しゅうばつ)を受け、稚児流が舞を奏上し、博多独特の拍子で手を複数回打つ手一本(ていっぽん)を入れた後、再び町内を巡り、三福神の三流は最後に集合して手一本を入れて解散する。五月四日は、三福神の三流だけが櫛田神社に集合してから町内を巡り、福岡縣護国神社では各流が集合して合同表敬を行い、稚児流は舞を奏上する。その後、各流は再び町内を巡り、前日と同様に最後は手一本を入れて解散する。
三福神の行列は、福神流は福神である福禄寿(ふくろくじゅ)、恵比須流は男恵比須と女恵比須、大黒流は大黒を行列の中心として、先頭より先達、流の代表、祝言の詞章を唱える子どもたち、傘鉾、その後に神馬に乗った三福神が続き、町内を回ってお祝いする。先達が三福神の来訪を知らせる先触れの後、流の代表が口上を述べ、「祝(いお)うたぁ」というかけ声に続いて流一同も両手を挙げて祝福する。このとき、福神は唐団扇(とううちわ)を左右に振り、男恵比須は釣り竿を振り女恵比須は檜扇(ひおうぎ)を振り、大黒は打ち出の小槌を振って祝う。最後に、代表が一束一本(いっそくいっぽん)と祝儀を答礼として受け取り、その御礼に祝い飾りなどを祝い先へ手渡す。これに対し、稚児流は、基本的には三福神の三流と違って行列は組まず、松、竹、梅、寿の四班にわかれて所定の場所へ出向き、稚児舞を奏上する。稚児舞は、天冠をつけた舞姫と呼ばれる女児によって、地謡、笛、小鼓、大鼓、太鼓に合わせて舞われ、囃子方は男児、地謡は成人男性が務める。稚児流は、舞姫と囃子方は班ごとに各役一人ずつで奏するが、班が合同して合奏形式で行われる場合もある。
各流とも、町内を回るときには、主に子どもたちが太鼓をたたきながら節に乗せて、言(い)い立(た)てと称した祝言の詞章を唱え、太鼓は拍を刻むように打たれる。太鼓は、三福神では締め太鼓に紐や縄を括りつけて太鼓の持ち手とし、子どもたちはその持ち手を持って太鼓を打ち鳴らしながら歩く。稚児流では、道順の一部で移動する際に舞姫が乗る曳(ひ)き台の後部に据え付けられた太鼓を打ち鳴らし、言い立てを唱えながら歩く。
松囃子の詞章については、歌僧正徹(かそうしょうてつ)の『草根集(そうこんしゅう)』永享四年(一四三二)正月七日条に、松囃子を見ていた畠山阿波守義忠(はたけやまあわのかみよしただ)が囃子物の歌詞を書き留めよと命じたとあり、当時から何らかの詞章が唱えられていたことがわかる。博多松囃子の三福神の言い立ては、福神は建物新築の地突き歌、恵比須は船新造の祝い歌、大黒は田植え歌に類する詞章であり、これらは『石城()志(せきじょうし)』(明和二年(一七六五))等の近世地誌類に記録されている。大黒流の言い立てについては、「松やね松やね、小松やね小松やね、松の陰にてとみはしませ」と同書にあり、この部分は現在では省略されているが、現行の狂言「松脂」に謡われている、京都の町衆が松囃子を演じる際の「松脂やにや、松脂や、松脂や、小松脂やにや」という囃子詞との関連を窺わせるものである。また稚児の言い立ては、『追懐松山遺事(ついかいしょうざんいじ)』(明治四三年(一九一〇))によると、文化年間(一八〇四~一八一八)に作られたものとある。