大宰府跡出土木簡
だざいふあとしゅつどもっかん
概要
古代の大宰府は「遠の朝廷」とも称され、地方に置かれた最大の官衙であり、対外的な外交や軍事を管轄し、西海道を統括した。こういった行政を担うため、大宰府は大規模な官人組織をもち多様な役所を所管し、政庁正殿「都府楼」を中心として様々な機能を果たす多様な施設から構成されていた。
大宰府跡の発掘調査は昭和四十三年に開始され、今年度で五〇年の節目をむかえる。この間、大宰府に関わる膨大な調査成果と研究が積み上げられてきた。なかでも、木簡は地方出土のものとしては最大級の規模と質を誇っている。管内諸国の調庸物は基本的に大宰府へ納められていたため、大宰府跡からは多くの荷札木簡がみつかっている。荷札木簡には筑前国、筑後国、豊後国、肥後国、薩摩国、大隅国からのものや「掩美嶋」(奄美大島)や「伊藍嶋竹□」(沖永良部島)といった南島からもたらされたものもある。最も点数が多い荷札木簡は、紫草に関するものである。紫草は、紫色の染料がとれるムラサキ科の多年草であり、その根から染料が採取される。大宰府管内から集められた調庸物は、多くは大宰府の所用分や財源に充てられたが、紫草は中央へも貢進されており、さらに大宰府では紫草で染織した綾・吊・革などの製品も貢進していた。文書木簡のうち、情報伝達に用いられたものには、例えば、基肄城に貯蓄している稲穀を管内諸国に班給するように命じたものがある。帳簿的な機能を持つものには、大宰府に配備されていた兵士の内訳を記したものがあり、大宰府常備軍の存在を裏付ける史料となっている。ほかに文書を挟んで封筒として用いられた封緘木簡などがある。
本木簡群は大宰府の日常の政務の実態を解明する上で極めて有用であり、我が国の古代史研究全般においても貴重な史料である。