刀 銘藤原清人
かたな めい ふじわらきよんど
概要
清人は師の刀匠清麿(四谷正宗といわれた天才)の自刃を知るや、神田に住む師の畏友であり、清人が師の如く尊敬していた一代の国学者斎藤昌麿に駆けつけて、後事の処理に当たった。即ち表向きは病死として届け、急遽信州に遺してある一子、長岡梅作を呼び、四谷の宗福寺に葬った。法名を大道義心居士という。そのころ清麿には弟子数名あったが、累のその身に及ばんことを恐れてか、皆師家を出て帰らず、末弟子の清人一人が残った。清人は師の遺した事の一切を処理して、師恩に報いようと固い決意をしたのである。そして清人は清麿の妻子を養い、師の借財返済のため鍛刀を続けた。
四谷正宗といわれた天才刀匠清麿の末路は惜しまれてならぬが、後事を処するに他に門人もあったが、一人清人が師の刀債を完済したばかりでなく、家事をよく処理して憂いなからしめて、報恩を完うした高潔な所業は、斯界の鑑としてその名を高からしめることになった。(五十嵐善四郎「豊前守藤原清人」)
所蔵館のウェブサイトで見る
公益財団法人致道博物館