写真(高岡関係)
しゃしん(たかおかかんけい)
概要
写真は全てモノクロ印刷で、厚紙の台紙に貼られている。【4】と【7】~【12】の台紙は大仏通横「小森」製(小森の詳細不明)。昭和2年(1927)の『高岡商工人名録』写真業の項目に小森の店名がないことから、明治~大正期に撮影されたものか。
写真の大きさは2種類あり、【1】~【4】が大、【5】~【12】が小となっている。
なお、【11】と【12】は富山県氷見市内の写真である。
1:瑞龍寺
年代:明治25年(1892)10月
寸法:縦10.3cm×横15.7cm,(全体)縦11.2cm×横17.9cm
瑞龍寺の伽藍を、総門向かって右斜めから撮影したもの。手前から総門、山門、仏殿、法堂が一直線上に並んでいる様子が見て取れる。現在とは異なり、当時は境内に木や植物が生い茂っていたことがわかる。
台紙裏面に「前田家菩題(ママ)處/髙岡山瑞龍寺/七堂伽藍之圖」「明治廿五年十月」と墨書あり。
2:川岸
寸法:縦10.4cm×横15.5cm,(全体)縦10.7cm×横16.5cm
千保川岸を撮影したものと思われる。川沿いに建物が並び、その中に人物が数名写っている。
台紙の右側にエンボス加工でロゴが入っており、「NIPPON」「JAPAN」などの文字が見える。
3:義経岩と女岩
寸法:縦10.4cm×横15.7cm,(全体)縦11.5cm×横16.5cm
雨晴海岸から義経岩と女岩を撮影したもの。手前に細長い舟が浮かんでおり、4名の人物が乗っている。
台紙裏面に「義經雨晴ラシ之景」と墨書あり。
4:勝興寺本堂
寸法:縦10.4cm×横16.0cm,(全体)縦11.9cm×横16.4cm
勝興寺本堂を正面から撮影したもの。本堂向かって右手前には、勝興寺七不思議の一つである実ならずの銀杏も写っている。
台紙の写真下部にはエンボス加工で「富山縣高岡市/小森謹寫」の文字が右読みで入っている。
台紙裏面に「古国府勝興寺」と墨書あり。
5:高岡古城公園
寸法:縦6.2cm×横8.7cm,(全体)縦6.5cm×横10.7cm
高岡古城公園内と思われる場所で子供2人を撮影したもの。左奥の高く盛り上がっている箇所は本丸の東側面と推測される。また、子供たちの奥の橋にも笠をかぶった人物が1人写っている。
台紙表面にはエンボス加工でロゴが入っており、「PHOTOGRAPH」「MADE IN JAPAN」の文字がある。
6:前田利長墓所
寸法:縦6.1cm×横9.1cm,(全体)縦6.3cm×横10.5cm
前田利長墓所を少し離れた場所から撮影したもの。最も大きな石燈籠の下に大人と子供が1人ずつ写っている。現在正面の鳥居の下にある石壇はみられない(石壇設置年代要調査)。
台紙裏面に「瑞龍院殿前田公之墓」と墨書あり。
7:前田利長墓所
寸法:縦6.2cm×横8.7cm,(全体)縦6.5cm×横10.7cm
前田利長墓所を正面から撮影したもの。最も大きな石燈籠の下には、立っている大人1人と、腰かけている子供4人が写っている。現在正面の鳥居の下にある石壇はみられない(石壇設置年代要調査)。
台紙の右側には箔押し・エンボス加工で左から「T.Komori Takaoka」「KとOのロゴ」、右読みで「富山縣髙岡市 大佛横通小森」の文字がある。
台紙裏面に「繁久寺々内/前田公ノ墓前」と墨書あり。また、赤単色で文字と図の印刷があり、右読みで「小森製/寫真師/大佛横通/冨山縣髙岡市」、その下に「T.Komori/Photographer/DAIBUTSUYOKODORI」「TAKAOKA-SHI/TOYAMA KEN/JAPAN.」の文字がある。
8:瑞龍寺
寸法:縦6.2cm×横8.8cm,(全体)縦6.5cm×横10.7cm
瑞龍寺の伽藍を総門向かって右斜めから撮影したもの。手前から総門、山門、仏殿、法堂が一直線上に並んでいる様子が見て取れる。現在とは異なり、総門の手前が畑になっており、そこに立つ男性が1人写っている。
台紙裏面に「瑞龍寺」と墨書あり。台紙は【7】と同様のものが使われている。
9:射水神社
寸法:縦6.2cm×横8.5cm,(全体)縦6.5cm×横10.7cm
高岡古城公園内の射水神社を正面から撮影したもの。鳥居周辺に人物が9人写っている。この鳥居は「明神型」で、明治30年代頃まであった(『週刊 日本の神社80 射水神社』デアゴスティーニ・ジャパン,2015年)。また、拝殿が現在のものと違い大きいので、明治33年(1900)の大火焼失以前と思われる。
台紙裏面に「髙岡公園内/射水神社正面」と墨書あり。台紙は【7】と同様のものが使われている。
10:雨晴海岸
寸法:縦6.2cm×横8.7cm,(全体)縦6.5cm×横10.7cm
雨晴海岸から義経岩と女岩を撮影したもの。【3】のアングルから引いた場所で撮られている。
台紙は【7】と同様のものが使われている。
11:鵲(かささぎ)の橋
寸法:縦6.2cm×横8.8cm,(全体)縦6.5cm×横10.7cm
笠をかぶった男性が立つ鵲の橋を撮影したものと思われる。昭和14年(1939)の『布勢村誌』によると、鵲の橋は富山県氷見市粟原の県天然記念物・駒つなぎ桜(駒止めの桜とも。大伴家持が能登へ渡る際にこの木に馬を繋いだ伝説がある)から、氷見市布施の布勢の円山(万葉集に詠まれた布勢の水海の孤島で、現在は頂上に布勢神社がある)の間に架けられていたといわれている。ちなみに家持は「かささぎの渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜ぞふけにける」という和歌を詠んでおり、小倉百人一首にも選ばれているため、ここから鵲の橋と名付けられたのかもしれない。
台紙裏面に「義經雨晴附近/鵲の橋」と墨書があるが、義経雨晴付近というのは誤りである。台紙は【7】と同様のものが使われている。
12:布勢神社
寸法:縦6.3cm×横8.7cm,(全体)縦6.5cm×横10.7cm
神社の拝殿を正面から撮影したもの。写真左側に「大伴家持卿遊覧之地」の碑があることや拝殿の作りから、富山県氷見市布施の布勢神社だということがわかる。ちなみに境内には、全国で最初に大伴家持をまつった御影社がある。
台紙裏面に「太田村/鵲ノ宮」と墨書があり、かつてここから鵲の橋が架けられていたことから鵲の宮と呼ばれていたのではないかと推察される。なお、太田村というのは誤りである。台紙は【7】と同様のものが使われている。