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瑞龍寺仏殿鉛瓦(軒平瓦)

ずいりゅうじぶつでんなまりがわら(のきひらがわら)

概要

瑞龍寺仏殿鉛瓦(軒平瓦)

ずいりゅうじぶつでんなまりがわら(のきひらがわら)

その他 / 江戸 / 富山県

富山県高岡市

江戸時代後期

鉛・圧延,打出

幅29.0cm×奥行8.5cm×高4.0cm

1

富山県高岡市古城1-5

資料番号「1-99-31」

本資料は、国宝・瑞龍寺仏殿の本瓦型鉛板葺軒平瓦である。厚さ1~2mmの鉛板を木型にあて槌で叩き、成形されている。これが木の瓦にかぶせられていた。本瓦葺とは、丸瓦と平瓦を組み合わせて葺き、端には文様をもつ軒丸瓦・軒平瓦を飾るものである(波型の桟瓦は江戸時代以降普及した)。
 瓦当面(端の文様部)に唐草文様が打出されている。右側面、真上、底面に瓦釘穴と思われる穴が計7ヵ所ある。真上に墨で「慶長年間之作」と書かれているが、これは事実ではない。瑞龍寺は、前田利長の33回忌にあたる正保3年(1646)に造営を開始し、明和8年(1771)の『高岡町図之弁』によると、山門・仏殿・法堂などの主要伽藍は正保、明暦および万治年間に建設され、残る回廊などの付属部分は遅くとも利長の50回忌である寛文3年(1663)には完成していたものと伝えている。仏殿の屋根は創建以来、鉛瓦が葺かれていたものと考えられたが、同寺に伝わる仏殿屋根の修理記録によれば、当初は杮葺きで、次に瓦葺きとなり、さらに鉛板葺きとなったようである。最初の修理は、天和3年(1683)に行われ、次いで延享元年(1744)、寛政4年(1792)、寛政8年(1796)、安政6年(1859)と続き、この中で鉛板を鋳直しが記されているのは寛政8年が最初である。この鋳直と書かれている以上、それ以前にすでに鉛葺きであったものと思われるが、延享元年の棟札には鉛の事は記されていない。よって、延享元年以降、寛政8年までの間に鉛瓦となったと考えられる。このような経緯から本資料の年代は、江戸時代後期と考えられる。
 ほかの鉛瓦の屋根をもつ建造物は全て加賀藩のもので、金沢城の石川門と勝興寺本堂(元鉛板葺き、現在は亜鉛合金板葺き)がある。
 資料の状態は、良好である。
 本資料は、瑞龍寺の建築・改修の歴史を知る上で貴重な資料である。

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キーワード

/ 瑞龍寺 / 仏殿 /

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