絵葉書(伏木関係)
えはがき(ふしきかんけい)
概要
①「伏木各町の獅子舞」
消印:昭和6年(1931)1月5日
伏木各町の獅子舞が海を背にして並んでいる写真の彩色絵葉書である。明治42年(1909)9月29日、皇太子(のちの大正天皇)の北陸行啓の際の場面である。築港工事が進んでようやく近代港湾らしい様相を見せ始めた伏木港を視察の際、現市伏木コミュニティーセンター辺りの埋立地に、伏木全町17頭と二上の獅子が揃っておもてなしをした。
表面には右読みで「郵便はかき」、1/2線があり、これは大正7~昭和7年(1918~32)の型式である。
使用済(エンタイヤ)で、壱銭五厘の切手が使用されている。消印には「高岡/6/1 5/前8-12」とあり、表面の型式から昭和6年(1931)1月5日と考えられる。
②「(越中)伏木港 荷物運搬ノ景」
年代:明治40~大正6年(1907~17)頃
作者:江尻眞生堂(富山市総曲輪)
伏木港で桟橋を渡って荷物を運搬する仲仕(荷役)と、石場に座る子供が写っている。仲仕は女性が主力であったといわれる。下部に右読みで「(越中)伏木港 荷物運搬ノ景 富山市惣曲輪江尻眞生堂」と記されている。
表面には右読みで「郵便はかき」、1/3線があり、これは明治40~大正6年(1907~17)の型式である。
未使用。
③官製はがき
年代:昭和28年(1953)
作者:日本郵便
裏面に「賀正/1953/伏木」の文字と船の絵のスタンプが捺された官製はがきで、1953年は昭和28年である。
表面には「郵便はがき」、切手の箇所に「日本郵便」とあり、金額は4円である。
記入済(投函はされていない)。
④「伏木築港内上流 伏木橋」
年代:明治40~大正6年(1907~17)頃
伏木港に架かる伏木橋の写真。下部には右読みで「伏木築港内上流 伏木橋 Fushiki bridge in Fushiki.」と記されている。
表面には右読みで「郵便はかき」、1/3線があり、これは明治40~大正6年(1907~17)の型式である。
未使用。
⑤「伏木河港 位置平面図」
年代:大正7~昭和7年(1918~32)頃
「伏木河港/荷揚場/桟橋/繋船壁/位置□□(平面カ)図/縮尺参千分之壱」。小矢部川河口を中心とした地図であり、新湊町・牧野村・能町村・伏木町の地名もみえる。
表面には右読みで「郵便はかき」、1/2線があり、これは大正7~昭和7年(1918~32)の型式である。
未使用。
⑥「護岸より眺たる伏木河港」
年代:大正7~昭和7年(1918~32)頃
作者:筒井盛華堂(東京)
伏木港に多くの船が集まっている写真である。
表面には右読みで「郵便はかき」、1/2線があり、これは大正7~昭和7年(1918~32)の型式である。また、1/2線には右読みで「東京神田橋筒井盛華堂印行」と記されている。
未使用。
⑦「伏木阜頭」
年代:大正7~昭和7年(1918~32)頃
伏木港の阜頭に座る人々や船が写っている。
表面には右読みで「郵便はかき」、1/2線があり、これは大正7~昭和7年(1918~32)の型式である。
未使用。
⑧「夏季の伏木海岸(其ノ二)」
年代:大正7~昭和7年(1918~32)頃
伏木海岸で海水浴を楽しむ人々が写っている。
表面には右読みで「郵便はかき」、1/2線があり、これは大正7~昭和7年(1918~32)の型式である。
未使用。
⑨「伏木測候所」
年代:明治43年(1910)7月
作者:北村書店
明治42年(1909)に移転・新築されて間もない伏木測候所の写真である。下部に右読みで「伏木測候所(北村書店発行)」と記されている。北村書店は、現在伏木中央町に所在している。
表面には右読みで「郵便はかき」、1/3線があり、これは明治40~大正6年(1907~17)の型式である。
使用済(エンタイヤ)で、消印には「石川・金石/43.7.22/后□」「□(金カ)澤/43□」「□(伏カ)木/43.□/前□」とあり、明治43年(1910)に使用されている。切手は欠損している。
⑩「東宮殿下の台覧に供したる獅子舞 其二(伏木休憩所)」
年代:明治42年(1909)9月29日
明治42年(1909)、東宮殿下(皇太子)嘉仁親王(後の大正天皇)の北陸行啓で、獅子舞を披露した際の写真である。「東宮殿下/行啓紀念/42.9.29 伏木商工会」のスタンプが捺されている。
表面には右読みで「郵便はかき」、1/3線があり、これは明治40~大正6年(1907~17)の型式である。
未使用。
【伏木港(ふしきこう)】
高岡市と新湊市(現射水市)の市境、小矢部川河口を中心とする国の特定重要港湾。正式名称は伏木富山港伏木地区。富山港や富山新港とともに伏木富山港を形成している。
港としての機能は、大伴家持が越中国守として着任した当時からであったが、近世になって初めて港として表舞台に登場し、寛文3年(1663)幕府の船政所13港の1つに指定される。明治32年(1899)開港場指定、昭和に入り日本海沿岸随一の港として発展。昭和39年(1964)石油配分基地用埋立地が、翌年国分港にタンカー専用岸壁が完成する。同50年7月に旧ソ連のワニノ港との間に定期配船が開設、日本とナホトカ港間の定期船も毎月寄港している。明治24年(1891)藤井能三が「伏木築港論」の中で記したとおり、ソ連社会主義崩壊後の環日本海経済圏の浮上で、対岸貿易の重要性が増してきている。来航船舶の大型化、河口部の浚渫費増大、石油配分基地に隣接する民家の安全性確保などの解決策として、平成元年(1989)から伏木外港が建設着工された。
(北日本新聞社『富山大百科事典』下巻,1994)
【伏木測候所(ふしきそっこうじょ)】
伏木測候所は伏木港の回船問屋、藤井能三により私立伏木測候所として設立された。能三は海外との貿易を目的に、伏木港の近代化を計画して伏木燈明台を私費で構築した。明治15年(1882)に伏木燈明台の一部を伏木庁舎にあて、同16年より観測事務を始め伏木測候所の創立となった。
明治19年(1886)県への移管請願書を提出。 同20年4月1日に県立伏木測候所として再発足した。県営移管後、業務量は更に発展拡張され、寄付により臥浦(ふしうら)に新庁舎を移設した。同25年に竣工して県に寄付した。しかし、海岸に隣接のため浸蝕が激しく、明治42年(1909)古国府に新庁舎が落成した。
昭和14年(1939)国に移管され中央気象台伏木観測所と改称、同16年に伏木測候所と改称した。平成10年(1998)伏木特別地域気象観測所として無人化観測を開始し、高岡市伏木気象資料館として活用されている。
(HP「富山地方気象台」 http://www.jma-net.go.jp/toyama/index.html)
【嘉仁親王北陸行啓】
明治22年(1889)立太子式を挙げた嘉仁親王(後の大正天皇)は、御成人以来、近畿・東海をはじめ奥羽・九州に至るまで、全国各地を行啓した。同41年、北陸三県の県知事が上京したことで北陸行啓が内示された。
高岡では奉迎事務臨時委員規定を設けて、市参事会員・市会議員・市公民中から39名を委嘱した。御座所・庭園の新築、物産陳列所の新設、高岡古城公園の修築並びに献上品調製の準備の他、高岡史料の編纂、高岡商業学校講堂の新築、道路修繕が進められた。
嘉仁親王は、明治42年(1909)9月15日に東京発駕、岐阜・福井・石川各県を行啓した後、同月29日に高岡駅に到着し、伏木へ向かった。
初日は、伏木で埠頭の御野立所から港内外の景観を望見した後、公会堂に入り、勝興寺出品の文化財や学童の体操、二上村の獅子舞などを台覧した。伏木から福野の福野農学校を視察して、富山の県会議事堂で宿泊した。
2日目は、藤井能三・堀二作・鳥山敬二郎・塩崎利平などが県の功労者として御座所に招かれた。
3日目は富山・魚津を視察した。
4日目の10月2日が高岡行啓の日となり、高岡中学・工芸学校を視察し、御野立所の古城公園本丸広場にて7台の御車山や学童の手信号体操を台覧した。桜馬場の御座所での昼食の後、物産陳列所・市立高岡商業・県立高岡高女・瑞龍寺も視察し、富山の宿泊所へ戻った。翌日早朝、帰路の途に就いた。
嘉仁親王の北陸行啓は、高岡開町300年の節目の年だった。
(高岡市史編纂委員会編『高岡市史』下巻,1969)