桐竹文鏡
きりたけもんきょう
概要
透明なガラスの背面に銀色の膜を貼り付けた「ガラス鏡」が、日本で広く使われるようになったのは、19世紀後半以降のことです。それ以前の鏡はもっぱら銅製で、銅を熱して溶かし型に流し込む鋳造の技法で作り、片面を磨いて像が映るように仕上げ、背面にはさまざまな文様を表現しました。日本における銅鏡の歴史は、紀元前2世紀ころに中国からもたらされたことに始まります。8世紀ころには、中国・唐の銅鏡が数多く到来し、それを模した鏡も、国内で製造されました。10世紀から12世紀のあいだに、鏡の形や文様はしだいに変化していき、日本固有の形式や表現をもった銅鏡が成立することとなります。
この鏡は銅鋳造で、鏡の背面には亀をかたどった鈕(つまみ)を中心に、桐と竹の文様を表しています。文様は輪郭が鋭く立ち、シャープで鮮明です。優れた技術によって格調高く仕上げられた作品です。下部の中央には銘文があり、青家次が天正16年、1588年に作ったことが記されています。桐と竹をふんだんに散らした文様構成は、当時の染織品などにもみられ、時代性をよく示しています。
青家次は京都を拠点に鏡を制作した鏡師です。青家は代々、鏡を制作する鏡師の家系で、特に天皇の住まう宮中で用いられる鏡を手がけるという栄誉ある地位を得ていました。この鏡には、16世紀末期から17世紀初期にかけて天皇の座にあった後陽成天皇(ごようぜいてんのう)が用いたものとの伝承があります。