大島風景
概要
82 中村彝(1887−1924) 大島風景 1914−15年
水戸市生まれ。はじめ軍人を志すが肺結核のため断念。画家になることを決心し、1906年、白馬会研究所に入るが、翌年太平洋画会研究所に移り、中村不折、満谷国四郎に師事。09年第3回文展で褒状を受けたのを皮切りに、文展を中心に高い評価を得た。10年太平洋画会会員になる。新宿中村屋の庇護を受けつつ生と死を見つめながら制作する。
彝は1914−15年の大島滞在中、この《大島風景》を含め数点の風景画を残している。遠景の山並み、中景の建物、近景の樹木という構図は、彝が影響を受けたセザンヌの構築的な風景画を思わせる。しかしその構築性は手前の樹木の荒々しいタッチによって乱されている。ここには快復しない自身の病や中村屋の相馬俊子との恋愛感情のもつれから大島へ向かったという、彝の心の揺れが反映しているのだろうか。「大島での作品は皆努力が目立つて気持が悪い。おそらく健康の関係でせうが、統一と余裕が著しく欠けて居ります」(1916年4月14日、洲崎義郎宛書簡)。現在正方形の画面は、裏側へ折られたキャンバスから当初はかなり横長であったことがわかり、フォーマットの決定にも幾度も試行錯誤した跡が見られる。