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松ヶ岡開墾場

まつがおかかいこんじょう

概要

松ヶ岡開墾場

まつがおかかいこんじょう

史跡 / 東北 / 山形県

山形県

鶴岡市

指定年月日:19890811
管理団体名:鶴岡市(平9・2・19)

史跡名勝天然記念物

 戊辰戦争で降伏した荘内藩(明治二年〔一八六九〕大泉藩と改称)は、明治四年(一八七一)に廃藩を迎え、大泉県についで酒田県(第二次)となった(明治九年山形県に編入)。旧藩家老で酒田県権大参事の[[菅]すげ]實秀は、藩の存続に力を寄せた西郷隆盛にもはかり、家禄の減少で生活に困窮する旧藩士族の救済や殖産を目的として、鶴岡東郊で大規模な開墾事業を計画した。翌五年四月、手始めに旧藩士三六〇人を六組に編成して鶴岡東郊の荒蕪地三万坪を一か月余りで開墾した。その後、月山山麓後田村の広大な山林の開墾をねらい、旧家老で酒田県大参事の松平親懐や菅實秀ら旧藩・酒田県幹部を代表として、旧藩士卒約三、〇〇〇人を三四組に編成し、八月から一〇〇余町歩の開墾に着手した。士卒は銃・刀を鍬に持ちかえ、苦労のすえわずか五八日余で全域の竣工を迎えたが、困難を伴う作業の中で脱落する者も少なくなかった。開墾の本部として、開墾地内の経塚北麓に藤島村の旧本陣の建物を移築し、集会所・事務所とした。旧藩主の酒井忠發も開墾地を訪れ、経塚に登って「松ヶ岡」の榜を自筆し立て、以後「松ヶ岡」が開墾地の名称となった。翌六年からは茶の栽培・桑園開発をはじめるとともに、さらに二〇四町歩に及ぶ広大な山林荒蕪地の開墾をなしとげ、開墾は軌道に乗りはじめる。明治七年(一八七四)には新政府太政官から賞状・慰労金の下賜があったが、一方旧税法反対の農民運動として著名なわっぱ騒動では、開墾に投入された旧税返還も要求され、苦境を迎えている。七年末からは本陣東側で蚕室の建設にとりかかり、鶴岡城の屋根瓦を運搬して上州方式の三階建て蚕室(桁行二一間・梁間五間・高さ五間四尺)四棟が八年四月完成する。九年には内務〓(*1)大久保利通・太政大臣三条實美らの訪問・激励を受ける一方、蚕室四棟(構造同前)を新築して製糸を開始、さらに旧藩廐舎古材を利用して蚕室二棟(桁行二〇間・梁間五間の瓦葺平屋)を建設した。十年(一八七七)には菅らが指導を受けた西郷隆盛が起こした西南戦争による緊張があり、戦後には県から給付された旧税の返還方針が決着するなど、県と密着した開墾のあり方は一部変更を余儀なくされるが、大久保利通・山形県令三島通庸らの勧農説得もあり開墾は継続された。明治九年に山形県に編入されて以降県からの支給金が絶え経営が次第に苦しくなったため明治十五年(一八八二)には一部事業を縮小するが、十五・十七年には勧農政策をとる政府から借金をしてしのいだ。その後明治二十年(一八八七)、製糸工場を鶴岡に創設して本格的な生糸生産も起こすが、明治末・大正以降、順次水利の便に応じて水田開発の面積を広げ、経営内容を変えていった。その過程で既に開墾地や蚕室の減少もあったが、昭和を経た今日、なお松ヶ岡は二二五ヘクタールの開墾地を伝えており、水田・畑(柿・桑等)の経営を続けている。土地は開墾士の子孫六四戸の共有とするなど、開墾当初の土地所有・利用形態の遺制も残している。なかでも開墾中心部の経塚周辺には、本陣(明治五年移築)、東西方向二列に配置された三階建ての一番~五番蚕室(明治八・九年築)、経塚中腹の蚕業稲荷神社(明治八年移座)などの建物が明治初年の面影そのままに開墾当時の雰囲気をとどめている。明治初年に士族授産のための開墾は全国的に行われたが、その多くが失敗に終わったなかで、松ヶ岡開墾はいちおう継続して今日までその施設・開墾地・経営方針を維持している稀有な例となっている。
 松ヶ岡開墾場は、明治初年において北海道開拓とならんで行われた士族授産・殖産のための開拓の遺跡として、日本の開拓史上きわめて貴重である。ここにその歴史的重要性から、経塚・本陣・蚕室等の開墾場中心部を史跡として指定し、その保存を図ろうとするものである。

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