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革嶋家文書(二千四百五十九通)

かわしまけもんじょ

作品概要

革嶋家文書(二千四百五十九通)

かわしまけもんじょ

その他 / 鎌倉 / 近畿

京都府

鎌倉

24巻、217冊、1帖、2121通、23鋪、8枚

京都府立京都学・歴彩館 京都府京都市左京区下鴨半木町1-29

重文指定年月日:20030529
国宝指定年月日:
登録年月日:

京都府

国宝・重要文化財(美術品)

「革嶋家文書」は京都市西京区川島の革嶋家に伝来した文書群で、その内容は鎌倉時代から大正時代までのおよそ八〇〇年間に及ぶ家の歴史を伝えている。
 革嶋家は佐竹義隆の弟義季を祖とする家柄で、二代義安から革嶋氏を名乗り、以後代々革嶋南庄の下司職を相伝した。南北朝時代の革嶋幸政は足利尊氏(一三〇五~五八)に従って軍功を挙げ、建武三年(一三三六)に同庄の地頭職に補任されるとともに幕府御家人に取り立てられた。以後、伊勢氏の被官となり、西岡衆と呼ばれる一員として室町幕府を支える軍事的基盤となって活動した。戦国時代、近郷の田地を買得し、西岡一帯の有力な国人領主にまで成長した。また、桂川用水の管理や地域的一揆の指導者としての活動にも著しいものがあった。織田信長(一五三四~八二)が入洛すると、一九代秀存はこれに従い、細川藤孝(一五三四~一六一〇)等の下で軍功を挙げたが、豊臣秀吉(一五三七~九八)の時代には、忠宣が明智光秀(一五二八~八二)との関係を疑われて牢浪となり、江戸時代を迎えた。
 江戸時代には、革嶋の旧地に居住し続け、牢人として苗字帯刀を許される身分を保ち、寛文八年(一六六八)から延宝五年(一六七七)までの一時期は備後福山藩水野家に仕官し、あるいは公家の鷹司家に奉公したこともあった。江戸時代中期の著名な儒者である大坂懐徳堂塾主中井竹山(一七三〇~一八〇四)は革嶋家の姻戚にあたり、竹山は革嶋家家産の再建に尽力している。幕末には、当主有尚が尊王攘夷運動に加わり、肥後、薩摩、長州の諸藩士と交流をもち、維新の戦争では有栖川宮熾仁親王(一八三五~九五)の下で旗本…

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