領分付肥前国郷帳
りょうぶんつきひぜんこくごうちょう
概要
江戸幕府は豊臣秀吉の検地帳にならい、正保4(1648)年、一国を単位として、村名とその産物石高を記した郷帳(郷村高帳の略)を初めて諸国の大名、代官より提出させた。その後、元禄14(1701)年、天保5(1834)年にも郷帳を提出させ、併せて国絵図も作成、提出させている。
これは正保以後の諸国における新田開発・生産技術の進歩による生産力の増加、逆に災害時による減少を把握するための再調査と言えよう。
郷帳は、各々2部(原本・写本)が提出され、一部は幕府勘定所、一部は紅葉山文庫に所蔵されていた。正保・元禄時代の郷帳は、ほとんどが明治維新後散逸。正保分はほとんどが失われ、元禄分は内閣文庫に写本17冊が残る。但し天保時代分全85冊は内閣文庫に引き継がれ所蔵されている。
郷帳は一国が一帳に編集されており、郡別の各村の産物石高が石・斗・舛から合・勺までの単位まで記されている。
この資料には、対馬を含む肥前の各村の石高が記され、表紙に「領分付 肥前国郷帳」、巻末に「元禄十四年辛巳年七月 松平信濃守」とある。松平信濃守は、佐賀藩3代藩主鍋島綱茂(1652~1707)のこと。元禄郷帳の国元控えの写しでは無いかと推察される。
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