絹本著色相州鎌倉七里浜図〈司馬江漢筆/二曲屏風〉
けんぽんちゃくしょくそうしゅうかまくらしちりがはまず
概要
江戸時代後期洋風画は、陰影法、遠近法といった西洋画法を用いた日本の風景図が開拓されていった点にその美術史的意義のひとつがあり、創始者とされる小田野直武(一七四六-八五)は、短い活躍期に西洋画法による日本の風景画を相当数遺している。しかし、それは墨と伝統的な絵具を用いて描かれたものであった。
司馬江漢【しばこうかん】(一七四七-一八一八)は荏胡麻の油を用いた油彩の技法を実践して日本風景画を大量に制作した。そのうえ、西洋画法による日本風景画を各地の社寺に奉納することにより、この新奇な絵画を広く一般民衆の目に触れしめ、洋風画を啓蒙普及させるうえに大きな役割を果たした。
寛政年間後期から文化初年にかけて、江漢は日本の風景画を中心とする大額の絵馬を神社仏閣に奉納した。しかし、そのなかで現存するのは芝愛宕山に奉納された本図と、厳島神社奉納の「木更津浦之図」のみである。「木更津浦之図」は残念ながら画面の傷みが激しいが、本図は「蘭画銅版画引札」が出た文化六年(一八〇九)までに愛宕社からはずされたため、比較的よい状態で伝えられてきた。
江漢は富士の画家といえるほど富士山を数多く描いているが、江漢作品全体のなかでも富士を望む七里浜図の作例は多く、ことに得意とする画題であったらしい。数ある江漢の「七里浜図」作例のなかでも、本図はとりわけ描写に生彩があり、江漢の油彩日本風景画の最も代表的な作例といえる。
本図の広大な空間表現、青い空と雲の描写、特異な波頭の表現等は、北斎をはじめとする同時代の浮世絵師等に影響を及ぼし、また、亜欧堂田善(一七四八-一八二二)等が本図を追随する作品を制作している。
なお、本図の上部に貼り付けられている大田南畝【おおたなんぼ】(一七四九-一八二三)の「辛未」即ち文化八年(一八一一)の年記がある題詩は、『一話一言』巻三十六に「司馬江漢絵馬 近頃まで愛宕山にかけてありし絵馬をはりかへ時、青山堂これを得て〓〓して携来。」として、本図の略図とともに収録されている。同書巻三十六は文化八年の記録である。これにより、本図を入手した青山堂が掛幅に改装し、南畝のもとに持参したこと、また、このとき南畝が題詩を書き与えたことがわかる。もうひとつの題詩を書いた中井董堂(一七五八-一八二一)は江戸の書家で、南畝同様狂歌もよくした人物である。本図は後に池長孟コレクションに入り、同コレクションが神戸市に寄贈され、神戸市立南蛮美術館に保管されていた間に、現在のような屏風装に変更されたものである。
司馬江漢の代表作として、西洋画法で描かれた油彩日本風景画の初期的作例として、本図の美術史的意義は大きい。