能登国分寺跡
附 建物群跡
のとこくぶんじあと つけたり たてものぐんあと
概要
能登国分寺は、『続日本後紀』等によると、承和10年(843)に定額の大興寺を国分寺としたのに始まり、僧10口、国分寺料5000束と定められた。その遺跡が、能登半島東海岸の七尾湾に面する七尾市の海岸から約2.5キロ南の水田地帯にあることは、「国分」の地名および塔心礎や数多くの礎石によって知られていたが、昭和45年から3年にわたって行なわれた発掘調査の結果、桁行5間・梁行4間の金堂をはじめ、講堂・塔・中門・南門等の跡が検出され、法起寺式伽藍配置をもつほぼ2町四方の寺域が復原できるにいたった。またこの遺跡の南方で検出された3グループの建物礎石群は、能登の国衙が国分寺にきわめて近接していたという想定と相まって、古代地方政治の理解に貴重な資料を提供するもので、これらを含めて史跡に指定される。